岩手県

平泉・高館(衣川館) 奥州・義経堂(高館義経堂)


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奥州・義経堂(衣川館)

奥州・平泉での源義経「最後の地」とされる高館義経堂(たかだちぎけいどう)で、岩手県西磐井郡平泉町にあります。
高館(衣川館)は北上川に面した丘陵にあり、衣川館(ころもがわのたち)、判官館とも呼ばれています。
東には北上川が流れている高館(衣川館、衣河館)は標高70m、比高60mの山城で、かつては藤原基成の館があったとされています。

義経堂(衣川館)

兄・源頼朝に追われて奥州藤原氏の3代・藤原秀衡を頼った源義経は、要害とされたこの高館に居館を与えられました。
地元で判官館(はんがんだて、ほうがんだて)と呼ばれていますが、これは源義経の官位が由来しています。

しかし、文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉幕府の圧迫に耐えかねた藤原秀衡の子・藤原泰衡は、高館を急襲します。
源義経は持仏堂に入り22歳の妻・郷御前(河越重頼の娘)、4歳の娘と共に自害したと伝わります。


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源義経は自刃して果てたのが、この衣川館(衣河館、衣川の館)となり、この高館がその衣川館(衣河館)跡だと考えられています。
ただし、衣川の脇にある接待館跡にて、大規模な遺構が発見されたことから、源義経が自刃して果てたのは衣川館は、接待館であったのではとする説もありのます。

丘の頂上にある義経堂(ぎけいどう)は、江戸時代の1683年に、仙台藩主4代の伊達綱村が源義経を偲んで建立したもので、堂内には義経公の木造が安置されています。

平泉・義経堂

下記の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、源義経主従供養塔です。

源義経主従供養塔

義経堂の西にには、空堀や曲輪、北側には土塁が残っています。
高館・義経堂は有料拝観(大人200円)ですが、義経堂と源義経に関する簡単な資料館も併設されています。
高館からの眺望は平泉随一といわるそうでして、北上川、束稲山(別名・東山)が見えました。

義経堂(衣川館) からの展望

もっとも「源義経は衣川の館に死せず、遁れて蝦夷に至る」など、源義経は逃げ延びて北海道へ渡ったとも、中国大陸に落ち延びてチンギス・ハーンとなり活躍したなど、生存説・逃亡説もあるのも事実です。

義経堂の見学所要時間は約15分といったところです。

交通アクセス

おくのほそ道の風景地として国の名勝にも指定されている、義経堂(衣川館)の駐車場は下記の地図ポイント地点にあります。
有料拝観の受付がある階段の左脇から入れます。

ただし、5台位しか止められませんので、混雑時は、西側に降りる坂の下にある広めの駐車場に止めてください。
いずれにせよ、義経堂の場所は分かりにくいので、カーナビで設定して行くと良いです。
JR東北本線の平泉駅からは徒歩約20分です。
近くには世界遺産でもある「平泉・中尊寺」や、国の特別史跡にもなっている平泉・無量光院跡もあります。

平泉・無量光院跡

中尊寺の入口付近には、弁慶の墓もありますので、セットでどうぞ。

さて、奥州征伐も果たした源頼朝ですが、不遇の死を遂げたとも言える源義経の死から9年後、相模川の橋供養のあと落馬したとされ、翌年1199年1月13日に死去しています。

この記事は戦国武将列伝Ωの記事を再編集したものです。

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コメント

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  • コメント (3)

    • 山田 久夫
    • 2020年 7月 21日

    衣川館。平泉は吾妻鑑に基づく説で在ることは既に述べました。延暦八年の続日本記を読むと衣川と記されています。征討軍は東越山を越えて刈田郡以北へ進入できず衣川の合流地に逗留していました。地形図を観察すると衣川とは摺上川ではないかと考えられます。源義経は藤原基成の居館に身を寄せていた。なぜか、義経の遺品と称される遺物が摺上川近くの医王寺に保存されています。摺上川の岸辺近くに壺石(現在は農地のようになっている)という奇妙な地名がある。信夫文字摺とは壺石に書かれた文字を摺写した布の処理をした川ゆえに摺上川と呼ばれる用になったのかと推測しています。
    いずれにせよ、平泉の衣川館は江戸時代の伊達藩が比定した場所であります。仮に多賀国府が存在したとしても国衙の役人の居館にしては遠すぎるでしょう。虚構ゆえ好き勝手な話しを尤もらしく語るのです。吾妻鑑は玉石混交といわれています。
    文治二年の頼朝奏上に拠れば凶徒(藤原秀衡は義経を匿った凶徒)の所帯跡は地頭を置き地頭に任せるとあります。鎌倉時代初頭に信夫郡で地頭であった人物の屋敷が藤原秀衡の屋敷跡と推測されるのです。信夫郡鳥和田村の地頭職は二階堂氏です。その付近には鎌倉時代初期の板碑が沢山あります。藤原秀衡が勧進した社もあり、昭和まで間欠的に金が採掘された金山跡があります。露天掘りの痕跡もの残っていました。平安時代の陸奥国衙は鎌倉時代にもあり、南北朝動乱期に北畠顕家は陸奥国衙に着任しましたが上洛した隙に北朝方の伊賀氏等に占拠されました。陸奥国へ戻った南朝方は国衙へ入れず仕方なしに霊山に仮の南朝国衙をおいたのです。信夫郡へ国衙奪還のため攻め入りましたが吉良貞家、畠山国氏軍の一斉攻撃で伊達郡の南朝方諸城は全て陥落しました。南朝方伊達氏一族も敗退したのです。一部は北朝方に付き領地を減らされ安堵した一族もいました。敗北した伊達氏一族が何故、陸奥守護職に就けたと思いますか? 宿題です。

    • 山田 久夫
    • 2020年 8月 07日

    吾妻鑑文治五年八月の条に多賀国府とありますが,発掘調査で該当時代より一世紀以上前に廃絶された遺跡であることが確認されています。続日本記に記された多賀城、多賀柵は賀美郡部内に在った城柵です。737年の条参照してください。780年に呰麻呂の乱で多賀城も焼かれました。大伴家持が多賀は名取以南十四郡から遠く離れているので機急に備え權郡を置くことを提言しています。多賀城が名取郡から遠く離れた賀美郡部内の城であることを裏打ちしています。多賀城碑をよく読むと虚偽がきされていました。神亀元年に大野東人は未だ按察使や鎮守将軍ににんじられていないのです。虚偽が記された多賀城碑出土地を多賀城跡と比定した江戸時代の説は誤りと言えるでしょう。つまり、文治五年八月の条にある多賀城は実在しないのです。寄って,同条は虚構と言えるのです。存在しない多賀城から平泉に行ったことも虚構と言えるのです。
    藤原秀衡の所帯跡が文治二年の頼朝奏上から推定されました。信夫郡鳥和田村と判明しました。大同五年の太政官符から陸奥国衙が信夫郡に在ることが判ります。藤原基衡は信夫庄の公田を押領したとして陸奥守藤原師綱に糾弾されました。次の陸奥守藤原基成の娘は藤原秀衡に嫁いでいます。藤原秀衡も陸奥国衙の役人、陸奥守に補任されています。居館は国衙から百町程の所にあったと十訓抄に記されています。文治二年の頼朝奏上は凶徒(藤原秀衡・泰衡)の所帯跡に地頭を補す事を明記していました。信夫郡鳥和田村地頭職代々の先祖を調べると、奥州合戦の総奉行工藤行政が初代の鳥和田村地頭職についていました。総奉行工藤行政の子が二階堂行村でその子が二階堂基行であり信夫郡鳥和田村の地頭職を二階堂行氏へ地頭職を譲りました。現在も同所に二階堂氏の後子孫がお住まいです。しかし、このことを未だご存じないと思います。
    地元では昔からの名家としてしられていますが何故名家なのか殆どの人が知らないようです。近くに金山跡があり昭和初期にも金の採掘が行われていたそうです。古い時代の露天掘りの痕跡も残っています。
    いずれにせよ、吾妻鑑文治五年八月の多賀国府が絡んだ記述は虚構と考えて間違いないでしょう。どうぞ冷静に続日本記党の史料をご確認頂ければ幸いです。

    • 山田久夫
    • 2023年 6月 02日

    衣川は信夫と伊達郡の境を流れる摺上川です。衣川の関は勿来の関と同じ関で下紐の関などとも呼称さていました。
    飯坂温泉十綱橋、信夫寄りの場所に置かれた関門です。放蕩の輩が往還するのを防ぐため造られたものです。
    前陸奧守藤原基成の居館が飯坂町高舘にあったと考えられます。高舘の近傍に東桜瀬、西桜瀬と言う地名が見られます。
    岩手県衣舘の近くにも何故か桜瀬という地名があります。飯坂高舘近くの桜瀬を模倣したものとかんがえられます。
    飯坂高舘から役1Kmの医王寺に義経ゆかりの遺品が保存されています。
    勿来の関と衣川の関は同じ関門です。西行の歌に「陸奥の 信夫の里に やすらひで 勿来の関を 越えへぞわずらふ」
    勿来の関は信夫郡の北端部と伊達郡の間にあった関です。
    元慶四年九月五日 三代格一八880年
    太政官符
    応レ禁断諸人濫入二関門一事
    右得二陸奥守従五位上小野朝臣後生解状一偁、検二案内一、關門有レ禁、其来久矣、而頃年遊蕩之輩往還任レ情、煩二擾吏委民一、雖レ加二厳制一、習俗難レ革、望請、官裁、内外官人及諸司家雑色等、
    非レ就二公事一、犯レ法濫入者、禁二固其身一、即将言上、但毎レ月結番、差二一分一人一、令レ守二関門一、若致二脱漏一者、解二却見任一、以懲二将来一者、
     従二位行大納言兼近衛大将源朝臣多宜、奉レ勅、 依レ請
    飯坂は古くから温泉と遊郭があり桜の名所であったのです。

城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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