徳丹城(とくたん-じょう)は、岩手県紫波郡矢巾町徳田にある平城・古代城柵です。
国の史跡に指定されており、志波城古代公園として整備されています。
徳丹城は、外郭と内郭の二重構造となっており、外郭線は東西約350m、南北約352mもあります。
概ね正方形のカタチですが、国道4号が南北に城内を通過しています。
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最初の築城は平安時代初期で、蝦夷討伐のため、造営されました。
払田柵(ほったさく)が801年頃、胆沢城(いさわ-じょう)が802年、盛岡の志波城は803年と言う順番です。
ところが、雫石川の水害で志波城が被害を受けたため、解体して移築された先が、徳丹城となります。
時の征夷大将軍は、文室綿麻呂(ふんや-の-わたまろ)で、造営工事には2000人もの鎮兵が動員されたと言います。
文室綿麻呂は、坂上田村麻呂の腹心の部下でしたが、体調不良で退いた田村麻呂の後任として指名された将軍でした。
徳丹城が完成したのは812年~814年頃となり、最初に、先行官衙(せんこうかんが)と呼ばれる、建築監督所のような建物が先に建てられたことがわかっています。
文室綿麻呂が、爾薩体(にさたい)・幣伊(へいの)の蝦夷を平定して、討伐は完了しました。
815年には、鎮兵500人が帰郷し、正規軍は撤退しています。
816年、文室綿麻呂も京都に返っていますので、蝦夷の抵抗は収まったものと考えられます。
ただし、840年頃まで、徳丹城は使われた模様で、律令国家に降伏した協力した俘囚の軍が配備され、祖・庸・調など税の徴収も行ったようです。
また北上川から、人工の運河を儲けたようで、河川を使って荷物などを運搬した模様です。
2006年7月31日に、徳丹城跡内の井戸跡より、木製の兜(かぶと)が発見されました。
木製の兜の発見は、日本で初めての事になります。
トチノキに漆が塗られていたようで、年代測定の結果は650年~670年頃のものとの事です。
どうやら、戦も終わって、不要になっていたため、井戸で桶がわりに使用されていたと考えられています。
のち、俘囚長として君臨した安倍氏が、奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手)に勢力を張り治めた模様です。
城域内に矢巾町歴史民俗資料館があり、下記のような南部曲り家も移築展示されていました。
南部曲り家の見学は150円の支払いが必要なようです。
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徳丹城への交通アクセス・行き方ですが、JR矢幅駅からタクシーで5分となります。
駅から歩くと30分くらいの距離です。
駐車場は、矢巾町歴史民俗資料館の駐車場が利用可能です。
ただし、道路は未舗装です。
また、国道4号はこのあたりスピードも出ていますので右折するのは、ちょっと危険です。
できれば早めにウインカーを出して左折するか、事故防止のため、西側のたんぼから車で入って行くのが良いです。
駐車場の場所は、当方のオリジナル日本の城マップにて印をしておきます。
徳丹城は志波城や多賀城と比べると半分以下の大きさですが、それでも実際歩いて回るとかなり広いです。
行きませんでしたが、国道4号にかかる歩道橋から見渡すと良いかもしれません。
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