群馬県

前橋城(厩橋城)の歴史 関東七名城と上毛の時代を感じる観光地

前橋城(厩橋城)

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前橋城(厩橋城)(群馬県)の歴史に迫ってみます。

前橋城(まえばし-じょう)が最初に築城されたのは、笠間明玄、太田道灌など様々な説があり、良くわかっていません。
しかし、1490年頃には、総社長尾家の長尾忠房が石倉の地に石倉城を築城したと言う話があります。
総社は前橋から見て利根川の対岸で、かつては上野国分寺も置かれた歴史ある街で、その利根川近くに石倉があります。


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しかし、利根川は坂東太郎と呼ばれるくらい、暴れる川で、洪水による氾濫・浸食で押し流れる事もしばしばあり、1534年に大きな氾濫があり、その時、利根川の本流が西へと変わったとようです。
この時、箕輪城の長野一族・長野左衛門尉方業(固山宗賢、長野方業)により、現在の地に残った三の丸を中心に再建すると厩橋城と命名されました。
「前橋風土記」では、厩橋城の初代城主を固山宗賢(こざんそうけん)としています。この頃は、まだ箕輪城の支城ですが、こうして前橋衆が起こりました。

1551年、厩橋城は上野に侵攻した小田原・北条家の支配化となります。一説には城主・長野賢忠が城を明け渡し、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に逃れたと言います。

1560年には、長尾景虎(上杉謙信)の長尾勢が厩橋城に攻め寄せ、13回とも言われる上杉謙信の関東遠征の際には、この厩橋城が拠点となっています。

前橋城の土塁

しかし、北条家も黙っていた訳では無く、1563年には同盟していた武田信玄が一時領有化するしたともされますが、すぐに上杉謙信が再び攻め落とすなどすると、1563年には北条城主・北条高広(きたじょうたかひろ)が前橋城主として赴任しています。
この北条高広は、小田原の北条家と間際らしいのですが、元々越後の豪族です。
その後、1567年、小田原北条家の調略により寝返りますが、1569年に越相同盟が結ばれると、北条氏政の仲介により北条高広は再び上杉家に帰参し、前橋城は上杉家が支配しました。


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上杉謙信の死後、1579年に武田勝頼が前橋城を攻めると、北条高広は降伏し、武田家臣として引き続き前橋城代として残りましたが、1582年3月に武田滅亡となったあとは、、関東管領を称して上野・箕輪城に入った滝川一益に城を明け渡し、のち滝川一益は前橋城を拠点としました。
しかし、すぐに明智光秀による本能寺の変織田信長が横死すると、滝川一益・真田昌幸真田幸村らは北条氏直北条氏照ら北条家に神流川の戦いで敗れ、厩橋城は北条家が再び奪還しました。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めとなると、浅野長政によって前橋城は落とされ、関東に徳川家康が入ると、甲斐から平岩親吉が33000石として厩橋城主になりました。
その後、平岩親吉は、関ヶ原の戦いのあと、1601年に再び甲斐に転封となったため、代わりに川越城から酒井重忠が入封し、上野前橋藩(厩橋藩)が成立し、前橋城は大改修され、3層3階の天守も造営されたと言い、酒井家は1747年に姫路城に移るまで前橋城主となりました。

前橋城の土塁

このように前橋城は江戸城防衛の関東北部重要拠点として、このように徳川譜代が治めました。
1747年、代わりに姫路から松平朝矩が入封すると、利根川の激流による城郭破壊に耐え切れなくなった松平家は、幕府に願い出て、1767年に川越城を本拠にしています。
そのため、早くも厩橋城は廃城となり、以後は川越藩の陣屋が置かれるに留まりました。
活気を失った城下町は荒廃し衰えたと言い、領民は再三にわたり懇願すると、幕末の1867年に前橋城は再興されましたが、その半年後に徳川慶喜が大政奉還をし、江戸幕府は終わりを迎えました。

前橋城の土塁

明治に入り群馬県が設立されると、当初、群馬県の県庁は高崎に置かれましたが、明治5年に県令・楫取素彦は前橋に県庁を移転し、前橋城の本丸御殿が群馬県庁として使用されました。

前橋城

上記写真は、前橋城の本丸北砲台があった場所で保存されています。

前橋城の記念碑

砲台上の前橋城の碑。
現在唯一残る砲台跡となっています。

前橋城の土塁
 
上記は本丸西の乾丸にある土塁。
前橋城の見学に当たっては、群馬県庁の駐車場が2時間まで無料で、土日祝でも同様ですので、便利です。
県庁の32階展望台も無料で土日祝も解放されておりますので、是非登ってみて、上からも前橋城の全体像を想像なさってみて下さい。

群馬県庁展望台

車橋門跡の基台

前橋城の中で最も重要な門の跡です。住宅などに囲まれた街中にひっそりと残されています。
右側の石垣は当時より8mも東へ移動させたとの事です。

車橋門跡

昭和63年に西の基台の基部と石垣が発見され、下記の場所で保存されています。
車橋門跡の場所ですが、他の説明や地図が結構いいかげんで、少し迷ってしまいました。
下記の地図の場所をご参考になさってください。北側からでも南側からでも入れます。
 

前橋城(厩橋城)の見学所要時間ですが、土塁が残されている場所だけでしたら、10分と言った感じです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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