大阪府

千石堀城 和泉にて対抗した根来衆の砦

千石堀城

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千石堀城(せんごくぼり-じょう)は、大阪府貝塚市橋本にある丘城で標高は60m、比高は30mほどになります。
三ノ丞山と呼ばれる丘陵地が千石堀城跡と考えられています。
千石堀城は、2重の塹壕で囲まれており、四方には多数の池があり天然の堀にもなっていました。
下記は、堀跡である千石堀です。
千石堀があった場所は、現在、舗装されている道路で、堀跡だとは言われなければ気が付かないかも知れません。

千石堀

最初の築城としては、戦国時代に織田勢が石山本願寺と戦ったあと、根来衆雑賀衆らが根来寺の出城として和泉国に築いた砦のひとつとされます。
その後、1583年、賤ケ岳の戦いにて柴田勝家を制した羽柴秀吉は、いまだ従わない根来寺などに対抗するため、岸和田城中村一氏を入れます。
このとき、羽柴勢に対処するため、根来衆と雑賀衆は、和泉・中村城、和泉・沢城、畠中城、和泉・田中城、和泉・鳥羽城、積善寺城、千石堀城、和泉・高井城など、岸和田城を伺う砦を強化しました。

1584年、小牧・長久手の戦いのあと、羽柴秀吉の紀州征伐になると岸和田城から発したは、和泉・鳥羽城、和泉・中村城、積善寺城を攻撃しました。
この時、一番東端だった千石堀城が最初に攻撃を受けたともされます。
なお、雑賀衆だった鈴木孫一や、和睦していた本願寺は、秀吉側で戦っています。

千石堀城

千石堀城には、大谷左大仁(根来佐太仁)と言う根来衆きっての荒法師が守備しており、鉄砲衆ら約1500の兵と、農民などが5000ほど籠城していた模様です。
そこに、羽柴秀次、堀秀政筒井定次長谷川秀一ら15000が攻撃を加えました。
しかし、城内からの激しい鉄砲射撃により、行く手を遮られたようです。
ただし、急造の城であり、防御は弱いとみた豊臣勢は、側面より田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方ら3000を突入させました。
これが奏して、羽柴秀次は千石堀城の二の丸まで入りましたが、大谷左大仁法印が指揮する本丸からは弓・鉄砲の攻撃がすさまじく釘付けとなります。
他の諸城は、抵抗を試みるも、その後の説得で開城していましたが、大谷左大仁はなおも抵抗を続けたと言います。

そのうち、筒井勢の中坊秀行と伊賀衆が搦手から接近して、本丸に火矢を放ちました。
この火矢が千石堀城の煙硝蔵(火薬庫)に引火したようで、大爆発を起こして、根来衆は火に包まれ、討って出た城兵はことごとく討ち取られたとされます。
一説によると、豊臣秀吉は、人も動物も皆殺しにするよう厳命したようで、女子供だけでなく馬や犬・猫も全滅したともあります。
千石堀城が陥落すると、中村一氏が攻めていた畠中城は自ら火を放ち自落しました。
中川秀次や高山右近らも卜半斎了珍の仲介により沢城を降伏させています。


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交通アクセスですが、水間鉄道・水間線の名越駅から歩いて20分ほどの距離になります。

登城する場合には、コスモスの里のバス停があるロータリー付近の紀泉鉄道の線路予定跡地から登城口があるようです。
トップ写真の場所です。
ただし、主郭側は未整備で、入るのは大変そうだと言う事です。

近くには、和泉・高井城もあります。

積善寺城 根来衆などが立て籠もった和泉の城跡
根来寺 荘厳な雰囲気な根来衆の本拠地
根来大善(根来盛重) 根来衆の頭領
和泉・高井城 失われつつある遺構
紀伊・雑賀城 豊臣勢に雑賀衆が抵抗した拠点と雑賀撃ち
岸和田城 数々の合戦を経験した続日本100名城
日本全国のお城がある場所が分かる地図


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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