東京都

辛垣城 三田氏滅亡の辛垣城の戦い

辛垣城

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辛垣城(からかいじょう)は、東京都青梅市二俣尾にある山城で標高は457m、比高223mと堅固な山城です。
北条氏政の書状では唐貝城と記載されています。
また、武蔵・勝沼城の西方向にあることから西城とも呼ばれました。

最初の築城は、戦国時代の1560年頃に武蔵・勝沼城主・三田綱秀が築いたとされていますが、それ以前から、砦として機能していた可能性はあります。
いずれにせよ、青梅の勝沼城では防御に不安があったことから、より標高の高い山に城を築いた(改修した)と言う事になります。

雷電山および枡形山に続く尾根上となる辛垣山の山頂付近に郭があると言い、ハイキングコースとして整備もされているようです。


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1560年、上杉謙信小田原城攻めを行い越後・春日山城に戻ったあとも、三田綱秀は北条家に帰参しませんでした。
私の説になってしまいますが、同じく、山内上杉家の重臣だった大石氏は、北条氏照が養子に入って、事実上、北条家に乗っ取られています。
そのため、三田氏も同じ運命を辿らないよう、考えた結果、北条氏に反抗したものと推測致します。

そのため、滝山城主・北条氏照からの攻撃を受けることになり、三田綱秀は辛垣城を本拠とします。
そして、1563年までに北条氏照に攻撃され、辛垣城の戦いにて、落城しました。

枡形山城の守将とも推定される塚田又八と言う家臣が裏切って、火をかけたとされています。
三田綱秀は、脱出して太田資正岩槻城まで逃れましたが、自害して果てました。享年73。
また、家臣・谷合久信に託された2人の子供もやがて病死して、三田氏は滅亡しています。

辛垣城の戦いは、北条勢が、多摩川を渡ったところから激戦になったようです。
その場所は軍畑(いくさばた)と言い、青梅線の駅名にもなっています。
地名となった「軍畑」の由来は不明ですが、軍勢が畑のように布陣していたのか、軍勢の遺骸が畑に一杯になったのか?、近くには「鎧塚」があり、両軍の戦死者の鎧や兜(兵?)を埋めたと伝わります。

北条勢の員野半四郎が先鋒となって山を登ったようですが、当時、大変貴重な「鉄砲」を撃たれて討死したとされます。
三田氏は一丁だけ鉄砲を所有していたとも・・。

現在の辛垣城は青梅丘陵ハイキングコースとして整備されており、堀切や堅堀など一部を確認することができます。
熊注意ですが、尾根続きの桝形山には桝形山城が築かれています。
ただし、桝形山城ら関する史料や伝承はよくわかっていませんが、まぁ。出城と推測できるでしょう。
なお、麓の海禅寺の本堂裏手には、三田氏の墓所があると言います。
この海禅寺は、もともと「福禅寺」と言う寺名でしたが、徳川幕府が15石の朱印状を与えた際に「海禅寺」と間違って記載したと言います。
そのため、幕府に訂正を申し出るのも、忍びないので、海禅寺と名乗ろうと言う事になったとか・・。

白明院には、辛垣城の支城・楯の城からの移築城門があります。

泉蔵院墓地の西側に、桝形山城・辛垣城・物見山への登山口がありますが、他にも登り口はあるようです。


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交通アクセスですが、JR青梅線の「二俣尾駅」を下車して、登城口まではそんなに遠くありません。
ただ、この付近、駐車場は皆無でしたので、登城は断念しました。

三田綱秀と笛姫の悲劇~武蔵・勝沼城主
青梅の武蔵・御岳城 標高929mにある山上城郭?
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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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