美濃・加納城
美濃・加納城(かのう-じょう)は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、1602年に岐阜城を廃城とした際に、新造した平城です。
岐阜県岐阜市加納丸の内にあり、国の史跡に指定されています。
しかし、もともとこの地には、土岐氏の家宰・斎藤利永が「沓井城」として築城しており、船田の戦いでは斎藤妙純の居城になっていたようです。
ただし、戦国時代の早い時期である1538年には廃城になっていたそうです。
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関ヶ原の戦いで石田三成側についた岐阜城主・織田秀信(三法師)が追放されると、1601年に岐阜城が破却され、その代わりに加納城が、1602年7月1日から築城開始されました。
徳川家康の娘・亀姫の夫でもある奥平信昌(奥平貞昌)が、1602年9月に入城した頃には、本丸・二ノ丸が完成していたと言います。
天下普請ですので、自分で築城費用負担しなかったと思われますが、これは大変お得な入城だったのではないでしょうか?
10万石の奥平信昌(奥平貞昌)なる武将は、長篠の戦いの際に、長篠城主として籠城し、武田勝頼に抵抗した人物ですね。
いわば、織田信長と徳川家康連合軍が、武田勢を設楽原の戦いでコテンパにやっつける要因を作った人物とも言えます。
その辺りは、下記をご参照願います。
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なお、加納城の縄張(設計)は、徳川家康が自ら行ったとされています。
普請奉行は本多忠勝で、近隣の大名を動員して築城しました。いわゆる天下普請ですね。
建材は主に岐阜城から移転したもので、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓に転用したと伝わります。
奥平信昌が入った後、加納藩として奥平家の居城となりました。
1632年に奥平忠隆が死去すると、嫡子がいなかったため改易され、従兄弟の大久保忠職が入城しましたが、1639年には戸田光重が入りました。
1711年からは安藤信友が入り、1755年には永井信陳が加納藩主となり、明治維新に至っています。
本丸の石垣、濠のあと、土塁、二の丸の石垣などが残っています。
なお、斎藤道三・織田信長や奥平信昌(奥平貞昌)も含めて、岐阜を知行した城主は、必ず滅ろぶと言う事態になっています。
これは、斎藤道三の時代に天守台を築城した際、城の秘密を知っている大工を生き埋めにした祟りだと言われているようです。
岐阜気象台のある場所が、岐阜城天守を移し、御三階と呼ばれる二の丸隅櫓があった場所となるようです。
現在は本丸部分しか残されていませんが、その昔はかなり広域にわたる平城であったようです。
なお、亀姫は母に似て気性が激しかったようで、城の北側には犠牲になった侍女12人の墓(十二相神)たちの墓が近くにあるとの事です。
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加納城へのアクセス・行き方ですが、電車の場合、名鉄本線・加納駅から徒歩約15分です。
車の場合には、下記の地図ポイント地点に、約20台の無料駐車場がありますが、夕方17時に閉まる?ようです。
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