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伊賀・上野城とは
伊賀の上野城(うえのじょう)は、白鳳城、伊賀上野城とも呼ばれ、標高184mほどの丘にある梯郭式平山城で、三重県伊賀市上野にあります。
比高は47mほどで、国の史跡、日本100名城にも選ばれています。
かつては平清盛ゆかりの平楽寺があり、また仁木氏館となっていましたが、1579年9月、織田信雄が8000にて、伊賀を手中に納めようと天正伊賀の乱となります。
この時、伊賀衆の抵抗で織田家は大敗したため、1581年9月に織田信長が45000の大軍を用いて伊賀を平定しました。
そして、織田信雄の家臣・滝川雄利が伊賀守護とされ、平楽寺跡に砦を築きます。
徳川家康との小牧・長久手の戦いの際に、この砦は脇坂安治によって落とされますが1585年5月に摂津に移封となり、以後は、大和郡山城主・筒井定次が伊賀・上野城に移され改修を行いました。
筒井定次は東寄りに3層の天守を建てたとの記録もありますが、その後、1633年頃に倒壊したようです。
さて、筒井定次の伊賀での石高は5万石とも10万石ともされ、それが事実だとすると事実上の左遷となっています。
筒井順慶の死後、筒井家の力が弱まっていたのと、筒井定次の失政もあったようで、重臣だった島清興(島左近)も1588年2月に、筒井家を離れています。
松倉重政、森好高、布施慶春といった家臣も筒井定次の元を去っています。
しかし、筒井定次は伊賀12万石、伊勢の内で5万石、山城の内に3万石の合計20万石だったとする江戸時代の史料もあり、伊賀での石高に関しては議論が分かれるところです。
1600年、関ヶ原の戦いで、筒井定次は徳川家康に味方して、会津征伐に赴いています。
その時、石田三成に協力した高槻城主の新庄直頼・新庄直定の親子などが上野城を攻めています。
しかし、留守を預かっていた筒井玄蕃(筒井玄蕃允)は、戦わずして徒歩(馬ではなく)で高野山に逃亡しました。
この恐れて逃亡したと言う話が徳川家康の耳に入り、慌てた筒井定次は徳川家康の許しを得て、伊賀に戻ります。
そして、地元の民の力も得て大軍となって上野城を取り戻し(伊賀上野城の戦い)、関ヶ原へと駆けつけました。
こうして、所領安堵となり伊賀・上野藩主となった筒井定次でしたが、1608年6月、失政を理由に領地没収となり、磐城平城の鳥居忠政に身柄を預けられてしまいます。
この改易は、キリシタンだったからなど諸説ありますが、重臣・中坊秀祐が筒井定次の悪行に耐え切れず江戸幕府に訴えたともされています。
すでれにせよ、筒井家も豊臣恩顧の大名に変わりなく、伊賀と言う大阪へも出やすい重要街道の1つにいた為、徳川家康は目障りだと感じたものと推測致します。
その後、大坂冬の陣にて豊臣秀頼に内通したという罪で、1615年3月5日、嫡男・筒井順定と共に、筒井定次は切腹を命じられました。享年54。
そして、徳川家康の命を受けた築城の名手・藤堂高虎が、今治城から22万石で移って、1611年1月から現在の上野城の姿へと大拡張します。
伊賀・上野城のみどころ
藤堂高虎は上野城の大改修を行う際に、伊賀忍者を58カ国・148城に派遣して図面を書かせ、築城の参考にしたと伝わります。
このように上野城には、日本一とも言われた藤堂高虎の高さ約30mの高石垣も完成し、5層天守も儲けられました。
日本一の高石垣は大坂城が最も高いと言う事になります。
そのためか、最近では日本で1位・2位を争う高石垣とうたっているようですが、もちろん石垣は非常に見応えあります。
なお、高石垣の上部は、とくにフェンスはありませんので、小さなお子様ずれの場合には、絶対に手を離さないよう注意が必要です。
大人でも近くに立つと非常に怖いですが、柵ができてしまうと、昔からの景観が損なわれてしまいますので、事故なくずっと今のままであって欲しいと願うばかりです。
このように、伊賀上野城は、徳川家康が豊臣秀頼の大阪城を攻める為の普請であり、万が一、豊臣勢との戦いで敗れた際には、伊賀・上野城へ退却することも徳川家康は視野に入れていたようです。
そして、大坂の陣の際にも築城工事は進んでいましたが、1615年に豊臣家が滅亡したことで工事は中断され、未完成のまま上野城の築城は終わりました。
本丸は津城の倍の広さがあり、二ノ丸などの主要部分には、城代の屋敷が置かれましたが、その他は工事が途中で止まっています。
ちなみに、天守は完成間近の1612年9月2日、台風と思われる嵐で倒壊し、大工など180名が死亡すると言う事故を起こし、以後、天守は建てられていません。
なお、藤堂高虎は津城を本城としましたが、一国一城令で上野城は「伊賀の城」として存続が認められ、弟の藤堂高清が城主になっています。
また、藤堂家は32万3954石にまで加増され、大藩となっています。
伊賀上野城に潜入
伊賀上野城は現在、国史跡の上野公園として整備されており、松尾芭蕉を祀る俳聖殿(国の重要文化財)などがあるほか、伊賀流忍者博物館があり観光地として忍者好きの方が多数訪れます。
天守台にある層塔型3層3階の木造天守は1935年(昭和10年)の模擬天守で、伊賀文化産業城と言う名称になっています。
天守の内部は撮影がすべて許可されていますので、嬉しい限りです。
下記は天守の井戸です。
模擬天守とはいえ、築80年以上となると、それなりの貫禄が出てきています。
伊賀ですので、もちろん「伊賀忍者」も潜んでいます。
現在の上野城天守閣は、ペット同伴でも、抱っこ(たまはケージ使用)などで入場できますので、これも珍しいです。
実は、伊賀・上野城は2回目の訪問です。
しかし、前回は「忍者屋敷」と「忍者ショー」だけ楽しんで、石垣が高いな~と思いつつ、そそくさと帰ってしまっていたため、城内をきちんと巡るのは、今回が初めてです。
見学所要時間は約40分でした。
伊賀上野城の駐車場ですが、いくつかあります。
平日でしたら下記の有料駐車場(500円)が便利です。
土日祝などですと、駐車場も混雑して他の臨時駐車場などに誘導されます。
現存建物としては「米蔵」がありますが、蔵がある場所は、忍者屋敷がある「伊賀流忍者博物館」の敷地内ですので、別途有料拝観で訪問する必要があります。
ただし、忍者屋敷も非常に面白いですので、初めての方は是非合わせてご覧頂くのがお勧めとなります。
忍者屋敷に関しては、別のページにて詳しくご紹介させて頂いております。
・伊賀上野城の伊賀流忍者博物館と忍者屋敷の仕掛けや忍者ショー
武家屋敷「入交家」
伊賀・上野城の城下に「武家屋敷」が現存していると言う事で入交家住宅を見学して参りました。
入交家(いりまじり)の入交家住宅は、1789年〜1800年頃、入交勘平が屋敷替えによって拝領した屋敷との事です。
三重県指定有形文化財に指定されており、現在は伊賀市が管理しているようです。
そのため、公衆トイレも立派でオシュレットもついてましたが、下記は昔のお風呂ですね。
時間があれば、是非どうぞですが、定休日などにご注意願います。
公式HPはこちらです。
入交家住宅の無料駐車場は、下記の地図ポイント地点となります。
入交家屋敷の近くには藤堂家菩提寺もありますが、藤堂高虎の墓は下記にてご紹介させて頂いておりますので、是非セットでご訪問どうぞ。
・藤堂高虎【詳細版】~主を7回も変えた猛将で水軍指揮も取れる築城名手
上記は豊臣秀吉から藤堂高虎に贈られ、伊賀・上野城にあったと言う「水鉢」で、現在、横浜の三渓園で展示されています。
この記事は、当方運営の関ヶ原情報より再編集致しました。
・大和郡山城の歴史と筒井定慶~郡山城の戦い
・筒井城 筒井氏が本拠地として整備した城跡
・藤堂高虎【詳細版】~主を7回も変えた猛将で水軍指揮も取れる築城名手
・伊賀上野城の伊賀流忍者博物館と忍者屋敷の仕掛けや忍者ショー
・天正伊賀の乱の解説~忍びの国の悲劇(伊賀衆)
・伊賀周辺の観光にも便利なオリジナル地図
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