越後・栖吉城(すよし-じょう)は、新潟県長岡市栖吉町にある標高328m山城で、別名は兜山城と言います。
比高は243mと、結構、堅固や城です。
築城年は不明ですが、戦国時代の永正年間(1504年~1521年)に、古志長尾家の長尾孝景が築城し、長岡の蔵王堂城から本拠地を移したとされます。
古志長尾氏は越後国守護になった上杉房顕に従って、越後に入った長尾景恒が先祖となります。
普済寺の北に平時の館があったといい、そこすらの登山道が大手だとされます。
三の丸から本丸までのルートは公園整備されているようで、畝状岨塁も見受けられるようです。
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上杉謙信が上洛ののち、春日山城に帰国したことを祝う「侍衆御太刀之次第」では、一門筆頭として長尾景信の名が見受けられます。
1561年、長尾景虎が山内上杉家を継いだ際に、長尾景信も上杉姓を許されています。
御館の乱では、上杉景勝の中心的な上田長尾家(上田衆)に対抗するため、上杉景虎(北条三郎)に味方しました。
しかし、居多浜の戦い(伊多浜の戦い)にて、城主・上杉景信(長尾景信、古志十郎)が討死し、栖吉城も落城し、古志長尾家は滅亡しました。
本庄清七郎の墓(本庄秀綱)が山の中にあるそうです。
その後、上杉謙信が在命していた際に、古志長尾家を継承(長尾姓の名乗りは辞退)していた、河田長親が古志長尾家の旧臣らを栖吉衆として再編しています。
この河田長親は近江が出身で、上杉謙信が上洛した際に連れて帰った武将です。
その河田長親が越中・松倉城にて急死(39歳)すると、嫡男の河田岩鶴丸が栖吉城の城主となのましたが早世しました。
そのため、親戚の河田親詮が河田家を継ぎましたが、軍役は縮小されて、栖吉衆の一武将に格下げとなった為、名実共に古志長尾家は滅亡しています。
河田家の没落以後は、上杉景勝の直参となった栖吉衆が番将を務めました。
1598年、上杉景勝の会津転封により、栖吉城は廃城となりましたが、上杉謙信の母・虎御前(青岩院)はこの栖吉城主であった長尾房景(長尾顕吉とも?)の娘となります。
そのため、一説によると、上杉謙信はこの栖吉城で誕生したとも伝わります。
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古志長尾家の菩提寺であったと言う普済寺(ふさいじ)は、南北朝時代に越後守護となった上杉氏の祈願所でもありました。
その普済寺の牧野忠成墓所近くに登城口があり、駐車スペースがあるそうです。
今回、たまたま通りがかった予定外だったのと17時を過ぎていたため、遠景の撮影に留めました。
なお、栖吉神社の裏手からも、山頂への道がある模様です。
遺構はなかなかよく残されているようですので、一度、登ってみたい山城です。
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