越後・安田城は越後に2箇所あり、新潟県阿賀野市にある越後・安田城もあるのですが、ここでは越後・安田城(新潟県柏崎市)を取り上げます。
越後・安田城(やすだ-じょう)(新潟県柏崎市)は、安田館、安田陣屋とも呼ばれる、標高50、比高40も平山城となります。
築城年は不詳ですが、北条憲朝を祖とすめ北条(きたじょう)氏の越後・北条家から分家したのが、安田氏で安田城に移ったため、安田氏の初代当主・安田憲朝が築城したと考えられます。
ただし、その前から砦ないし、館はあったものとも推測できます。
なお、安田氏は、鎌倉御家人・大江広元の系譜をひく国衆となります。
という事は、安芸・吉田郡山城の毛利元就と先祖が同じと言えるでしょう。
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安田城主としては安田広春の養子・安田景元(やすだ-かげもと)が知られます。
なお、安田広春は1530年ごろに死去したようです。
上条定憲らが長尾為景に対して、上条の乱を起こすと、安田景元は主君・長尾為景に従って反乱軍と戦いました。
上条の乱は一進一退の膠着状態となりましたが、長尾為景が隠居することで、沈静化しています。
天文23年(1554年)、北条城主・北条高広が、上杉家を見限って武田信玄に内応すると、安田城主・安田景元は、直江実綱に通報しました。
柿崎景家・宇佐美定満らに北条城の動きを警戒させると、上杉謙信は安田景元と共に北条城を攻撃しています。
安田景元のあとは、安田顕元が家督を継ぎます。
正室は同じ国衆の竹俣慶綱の娘です。
安田顕元(やすだ-あきもと)は、川中島の戦いなどで戦功を認められて、、信濃・飯山城も任されました。
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1578年、上杉謙信の死後に、上杉家の後継者争いとなる御館の乱になると、安田顕元は上杉景勝に味方しました。
「正当な主君である景勝様を捨てて、諸人の景虎に走るは、侍のとるべき筋目ではない」と上杉景勝に誓書を提出したと言います。
そして、上杉景虎(北条三郎)に味方した、五十公野治長(新発田重家)、堀江宗親などの調略を行い、景勝勢に寝返らせています。
特に、鮫ヶ尾城主・堀江宗親の内応を取り付けたのは、上杉景虎(北条三郎)が、鮫ヶ尾城にて自刃する決定的な要因となりました、
また、安田顕元は上杉憲政の遺骸を引き取り、丁重に葬ったと言われます。
なお、五十公野重家・長沢道寿斎・毛利秀広らの恩賞を約束して味方に引き入れていましたが、論功行賞にて、恩賞のほとんどが上杉景勝の重臣・直江兼続らの上田衆に与えられます。
そたため、寝返った新発田氏らの国人衆は猛反発し、安田顕元は、板ばさみとなって責任を感じ、自害して果てました。
その後、家督は、弟の安田能元が継ぎます。
安田能元は上杉景勝のもので大活躍しますので、別の記事にて詳しくご紹介させて頂きます。
なお、越後・安田城は会津に移った際に廃城になった模様です。
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越後・安田城(新潟県柏崎市)への行き方や登城ですが、城址は安田城跡公園となっていて見学できます。
今回も登城するつもりで向かいましたが、1周しても、駐車できる場所が見つからず、遠景撮影で終わってしまいました。
自宅に戻りまして、ひとり反省会を開きましたところ、工場団地のところにある、大きな駐車場が公園の駐車場だったようです。
平日にも関わらず、車がきちんと整列している感じで、たくさん車が止まっていましたので、てっきり、工場の駐車場だと思ってしまいました。
勝手に止めては怒られると思い、そのあとグルッと駐車場を捜した次第ですが、どうやら、工場でお勤めの方も公園駐車場を利用されているようです。
職場の指示なのか、派遣などで勤務されている方が職場に止められずやむを得ず止めているのか?
当方も城址の訪問時は、地元の皆様にご迷惑をお掛けしないようマナーを守って見学するよう心がけております。
働くことは生活のためににもとても大切な事で理解できますが、もし、公園を利用するが主目的ではない場合にでも、クルマを止めているのであれば、お互いにマナーは守りたいところです。
その駐車場を当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
・大江広元~鎌倉幕府の源頼朝に助言した初代政所別当と方園寺
・越後・北条城 ここにも大江広元からの毛利家一族が
・御館の乱 上杉謙信死後の壮絶な跡継ぎ争い
・長尾為景 二度主を殺した「奸雄」謙信の父
・安田能元 和歌も嗜む文武両道の上杉家奉行
・越後・上条城 上条上杉家や上条政繁の居城
・越後・琵琶島城 上杉家に忠実な宇佐美氏の本拠地
・上杉景勝とは~豪毅果断・潔白謹厳で笑わない戦国武将
・直江兼続~戦国の上杉家を支えた智勇兼備の名将
・当方オリジナルの日本全国お城マップ
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