箕冠城
箕冠城(みかぶりじょう)は、上杉氏の重臣・大熊朝秀(おおくま-ともひで)の居城としてしられます。
場所は春日山城からも、そんなに遠くない、新潟県上越市板倉区にある独立丘の箕冠山に築かれており、現在は城址公園として曲輪(くるわ)、土塁、虎口、堀切、横堀、水の手などの遺構が残っており綺麗に整備もされています。
続日本100名城の鮫ヶ尾城も近いです。
越後・箕冠城は標高242m、比高約160mの山城で、鳥坂城の脇の山にあります。
最初の築城は不明ですが、、越後国守護・上杉家の重臣である大熊氏によって整備されました。
史料では、大熊政秀、大熊朝秀、大熊長秀の三代の名前が見受けられます。
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大熊政秀は上杉氏の段銭収納を務めていましたが、その後、家督を継いでいる大熊朝秀も、段銭収納を継承しています。
段銭収納とは、寺社造営などの際に臨時で税を取る役目と言う意味で、段銭(たんせん)と言うのは田地から段数に応じて徴収した金銭と言うことになります。
大熊朝秀は、長尾景虎(上杉謙信)に仕えていました。
しかし、1553年(天文22年)に、節黒城(十日町市)の上野家成と、千手城(十日町市)の下平修理とが領地争いを起こすと、上杉渦中の派閥争いが激化します。
このとき、下平修理は大熊朝秀を頼ったため、長尾家譜代の重臣である与板城主・直江実綱(直江景綱)や本庄実乃と対立することになりました。
これに、嫌気がさした長尾景虎が、勝手にどこかに行ってしまう事件が発生します。
このとき、大熊朝秀は甲斐の武田信玄に内通して反旗を翻します。
そして、会津の蘆名盛氏と共に越後に兵を進めますが、頸城郡駒帰にて上野家成に敗れ、越中へ逃れました。
その後、永禄6年(1563年)になって武田信玄の家臣に加わり、山県昌景の与力として信濃・根古屋城主(曲尾城)となりますが、その後、武田信玄の直臣になりました。
足軽大将騎馬30騎、足軽75人持となっています。
越後で上杉謙信の死後に御館の乱となると、武田側の使者となって、直江兼続らとの交渉も担当しています。
武田勝頼のときには、遠江・小山城を任されるなど重用されました。
天正10年(1582年)3月、織田信忠が甲斐へ侵攻した際には、天目山の戦いまで武田勝頼に従って、運命を共にすると言う忠義を示しています。
次男の大熊長秀(おおくま-ながひで)は妻有城となっていましたが、信濃にて処刑されています。
大熊朝秀の嫡男・大熊常光は、真田昌幸の馬廻りとなっていたため、存続しており、真田信之の代には筆頭家老になりました。
子孫も代々、真田家の家老職を踏襲して存続しています。
なお、大熊朝秀が箕冠城を去ったあとも、箕冠城は上杉毛が使用したようですが、その後、廃城になった模様です。
箕冠城跡の真下は、北陸新幹線が通っていますので、望遠レンズを持って行けば、撮影にも適した場所です。
交通アクセス
箕冠城への交通アクセスですが、JR新井駅からバスに乗り「菰立」バス停下車、徒歩15分で登城口となります。
箕冠城跡公園駐車場は12台分あります。
下記の場所から登って行けます。
駐車場から本丸跡まで徒歩10分です。
最初、クマさんを警戒していたのですが、近くに「採石場」があり、絶えず「ガンガンガンガン」「ゴンゴンゴンゴン」と建設現場の工事のような騒音が近くでして、どこに来てしまったのか?と、大変騒々しいところですが、ある意味安全だと思いました。
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