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津軽・大浦城(おおうらじょう)は、青森県弘前市賀田・五代の平城です。
津軽氏が躍進する源となった大浦城ですが、どんな歴史があったのかを踏まえてご紹介したいと存じます。
大浦城と大浦光信・大浦政信
大浦光信(おおうら-みつのぶ)は、1460年に金沢家信または久慈元信の子として生まれました。
大浦光信(南部光信)は南部氏の支族ともされ、第20代当主で聖寿寺館主・南部信時の命を受けて、津軽の回復を狙う安東氏を抑えるため、1491年に、岩木山の西にある鰺ヶ沢町の種里城に入りました。
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その後、大浦光信(南部光信)は1492年に赤石城を築いて、安藤一族を駆逐します。
そして、安東氏が津軽奪還を諦めると、津軽統一を目指したようで、1502年に、古館を改修して大浦城を築きました。
この時、子とされる大浦盛信(おおうら-もりのぶ)(1483年~1538年9月26日)が、大浦城主となっています。
1526年に大浦光信が病にて死去(享年67)すると、大浦盛信は菩提を弔うために1528年、長勝寺を建立しました。
そのあとは大浦政信(おおうら-まさのぶ)が継いでいますが、1541年に、三味線河原の戦いとなります。
この時、和徳城を攻めて小山内満春を討ち取りますが、小山内満春の子・小山内永春が反撃に出て、大浦勢は敗れ、3000石の家老・森岡為治(もりおか-ためはる)と共に大浦政信は討死したとされます。
大浦為則
大浦為則(おおうら-ためのり)は、大浦城主・大浦政信の嫡男として1520年3月3日に生まれました。
1541年に、三味線河原の戦いにて、父・大浦政信が討死にすると家督を継ぎます。
そして、堀越城の武田氏を降すと、弟・武田守信(大浦守信)を武田の養子として送りました。
ただ、大浦為則は病弱だったようで、この弟・武田守信(大浦守信)が、大浦家の政務を執り行っています。
大浦為則の娘・阿保良(戌姫・お福)には、大浦守信の子?または下久慈城主・久慈信長の子ともされる、津軽為信を娶わせて、大浦家の養嗣子として迎えました。
天正13年(1585年)頃、邑楽為則の5男と6男(津軽為信の正室・阿保良の弟2人)が、川遊び中に溺死しました。
これは、津軽為信が家督争いを避けるため、誅殺したとも言われています。
大浦為則は1567年3月16日に死去。
弟・大浦守信も1568年頃に亡くなったとされます。
そして、大浦為則の養子である津軽為信が、大浦家を継いで大浦城主となりました。
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津軽為信
津軽為信は、1571年に、支城・堀越城から出撃し、石川城の石川高信を自害に追い込み、主家・南部家に謀反を起こしました。
そして、1576年には大光寺城の滝本重行を撃破。(下記は大光寺城跡)
1578年には、浪岡御所の北畠顕村(浪岡顕村)をも自刃させ、1585年(天正16年)に飯詰の高楯城を攻略すると、津軽統一がほぼ完了しました。
文禄3年(1594年)豊臣秀吉から、45000石の所領が安堵され、津軽為信は大浦城から堀越城に居城を移し、後に弘前城を築くと、初代の弘前藩主となっています。
大浦城は、一国一城令の際に廃城となっています。
大手門は、弘前城の三の丸・賀田門(北門)として移築されたと言いますが現存していません。
大浦城の本丸は津軽中学校で、付近には二の丸、三の丸、西の丸、南郭など、城の規模は、東西500m、南北250mほどです。
もともと平城で館などの建物がいくつかあった程度だと考えられ、遺構はほとんど失われています。
大手門は南で道路沿いに案内板があります。
南東側の道路に面して石碑と案内板、中学校の入口手前付近に「大浦城墟碑」がありました。
アクセス
当方のオリジナルGoogleマップにて正確な場所をご確認いただけますと幸いです。
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