奥沢城(おくさわじょう)は東京都世田谷区奥沢にある平城です。
世田谷城主の吉良頼康(吉良左衛門頼康)が、出城として築いたとされています。
そして、家臣の大平出羽守(大平佐馬)が奥沢城に入ったとされます。
この大平出羽守の娘・常盤姫は、吉良頼康の側室となっています。
ちなみに、正室は、北条氏綱の娘ですので、北条家から吉良家は、かなり重視されていますが、吉良家は、足利将軍家の一族であるため、家格が高いのです。
そのため、吉良頼康は、北条家に従っていましたが、諸役は免除されるなど、特別扱いを受けていました。
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奥沢城は、若干ですが、付近の土地よりも高い標高30mのところにあり、多摩川の洪水を防いだり、もちろん、防御面で少し有利と言う点もあったことがうかがえます。
北には大沼があったと言いますが、今では住宅街でどこにあったのかも分かりません。
吉良頼康は、北条家に従っていましたが、1590年に小田原城が開城し、徳川家康が江戸城に入ると、奥沢城は廃城となりました。
その後、江戸時代に入って、寛文5年(1665年)に、名主・七左衛門が奥沢城跡を寺地として取得し、延宝6年(1678年)に、珂碩上人が九品山・浄真寺を開山しました。
これが幸いしたのでしょう。
土塁は後世へ伝わりました。
浄真寺は九品仏(くほんぶつ)の通称で親しまれています。
鷺草伝説
鷺草(サギソウ)の伝説があります。
北条氏綱の娘を正室にしていたにしていたにしていた吉良頼康は、奥沢城主・大平出羽守の娘である常盤姫を側室としていました。
常盤は吉良頼康から寵愛を受けていたと言います。
しかし、これを妬んだ他の側室が、常盤が不義をはたらいていると訴えました。
そのため、常盤は次第に吉良頼康から遠ざけられるようになり、悲しんだ常盤は、可愛がっていた白鷺の脚に身の潔白を訴える遺書をつけて、両親がいる奥沢城へ放ったと言います。
折しも奥沢城の近くで狩りをしていた吉良頼康は、一羽の白鷺を射落としました。
そして、脚に結ばれていた常盤の遺書に気が付き、吉良頼康は急いで世田谷城へ引き返しましたが、時すでに遅く、常盤は自害して果てたと言います。
そして、白鷺が射落とされた場所からは、鷺に似た白い可憐な花が咲くようになったと言うのが、鷺草伝説になります。
交通アクセスですが、東急・大井町線の九品仏駅を降りて、左方向にまっすぐ進んで約5分、浄真寺境内が奥沢城跡となります。
大きな山門があり、写真ではわかりにくいですが、その左右が土塁になっています。
そして、境内は土塁で囲まれています。
単郭方形である奥沢城の石碑は、大きな山門の左手の土塁手前にひっそりとありました。
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秋には紅葉(もみじ)が素晴らしいところです。
見学所要時間は約15分といったところです。
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