鉢形城の歴史
鉢形城は、埼玉県寄居町にある城跡。
大きな流れの荒川と、渓谷になっている深沢川との合流部分の小高い丘に築いた平山城だ。
最初に鉢形城が築かれたのは1476年で、山内上杉氏の家臣である長尾景春される。
しかし、1478年 扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が鉢形城を攻めて落城し、上杉顕定が城主となった。
1488年には扇谷の上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻める為進軍したが、鉢形城から東・約8kmで「高見原の戦い」となった。攻め手の上杉定正は野戦に勝ったが、鉢形城は落とせず撤退している。
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1494年、更に上杉定正は鉢形城の上杉顕定を攻める為、伊勢盛時(北条早雲)の援軍を得て、再び高見原で対峙したが、上杉定正は荒川を渡河する際に落馬して死去。以後、上杉顕定が越後・長森原で戦死したあとも、後を継いだ養子・上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)は鉢形城を拠点とした。
1512年、上杉顕実は同じ上杉顕定の養子であった上杉憲房に包囲されて鉢形城は落城。上杉顕実は命を助けられたものの山内上杉家当主の座を失った。
1515年、上杉憲房は山内上杉氏の家督を継いで、同年に上杉顕実が死去すると関東管領職も継いだ。しかし、家臣として仕えていた長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模・小田原城の北条氏綱、甲斐の武田信虎などとの長年にわたり抗争となった。
上杉憲房は1524年10月10日、北条氏綱と戦うために毛呂山城を攻めた際にこの鉢形城に入城している。
しかし、1525年3月に病没。養子の上杉憲寛が継いだが、のちに争いの末、実子の上杉憲政が家督を継いだ。
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1546年、小田原城の北条氏康が上杉朝定・上杉憲政の拠る川越城を攻略する河越夜戦で勝利。北条氏の勢力が武蔵国にも伸びた。
1564年、この地域の天神山城主・藤田泰邦の娘・大福御前に入婿した北条氏康の四男・北条氏邦(藤田安房守、藤田氏邦)は、鉢形城に本拠を移した。以後、鉢形城は北条氏の北関東支配における重要拠点となった。
1569年、武田信玄が小田原攻めの際に途中で鉢形城を攻撃。守りが堅いのを見た武田信玄は、攻撃はほとんどせず、そのまま南下して滝山城に向かった。
1574年、上杉謙信が鉢形城の城下に火を放った。
1590年、豊臣秀吉による小田原攻めにおいては豊臣勢の「北国軍」が鉢形城にも来襲。前田利家・上杉景勝・島田利正・真田昌幸、徳川家康家臣の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠らの35000が5月13日に鉢形城を包囲した。北条氏邦は鉢形城に籠り黒澤上野介らと共に3000が約1か月に渡り籠城したが、本多忠勝らが車山から大砲を撃ち込み、城の被害が甚大であったことから、6月14日、城兵の助命を条件に開城。
徳川家康の関東討入にともない、成瀬正一、日下部定好が寄居の代官となって周辺の統治を行った。
上記は荒川を望む展望。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害です。
北条家の支城となってから、大改修が行われました。
鉢形城の三の曲輪には、北条氏邦の時代に築かれたと思われる石積土塁がある。中世後期とは言え、石を使った土塁は珍しく、北条家の築城技術が優れていたことが分かる。
上記は、深沢川を上から覗いた光景。
昭和7年に国指定史跡となりました。関東地方では有数の規模を誇る鉢形城です。
東・南・北は堅固ですが、西側は開けており防衛上の弱点である為、城主の居館や上級武士の館のあった本曲輪から西側に何重にも深い堀切を行い、二の曲輪・三の曲輪などの曲輪をいくつも造成したようです。
近年の発掘では、北条家築城の特徴でもある障子堀のような跡も発掘されました。
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交通アクセス
鉢形城への交通アクセス・行き方ですが、無料駐車場は下記のポイント地点の場所です。
・太田道灌の解説~忠義を貫いた扇谷上杉家の名将~伊勢原・太田道灌の首塚も
・北条氏邦 (藤田氏邦)~鉢形城主として北条家を支えた武将
・成瀬正一と成瀬正成~意外性もあった徳川家の家臣とその功績
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