宮崎県

日向・飯野城と北原兼親の没落~あの島津義弘が活躍した居城

日向・飯野城

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日向・飯野城(いいのじょう)は、宮崎県えびの市原田字城内にある山城で、亀城とも呼ばれます。
標高は280m、比高(標高差)は60mと結構あります。

飯野城は、南に川内川が東西に流れる丘陵の先端部にあり、本丸・二の丸・三の丸と大きな曲輪と、物見曲輪などの小さな曲輪があると言います。
現在は亀城公園として本丸と物見曲輪の部分がきちんと整備されています。

この当たりは、真幸院(まさきいん)と呼ばれる区域で、平安時代の1160年に真幸院の収納使となった日下部重貞が、飯野城を築いたと伝わります。
別説では建久年間(1190年~1199年)に日下部氏の真幸太郎兼幸が築城したともあります。


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鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代となると、日下部氏は没落します。
その日下部氏に変わって、肝付氏の一族・北原兼幸が飯野城に入り本拠としました。

その後、戦国時代となって北原氏は1522年に日向・山田城を攻略するなど、真幸院一帯に勢力を伸ばします。
しかし、1558年に北原兼守が三ツ山城(小林城)にて没すると、男子がいなかったため家督継承問題となり、都於郡城主・伊東義祐が介入します。
北原兼守に嫁いで未亡人となった娘・麻生を、北原庶流の馬関田右衛門佐に再嫁させて、北原家を乗っ取ろうとしました。
反対する北原家の重臣らを都於郡城に呼び寄せると、その帰り道に六野原(むつのばる)で取り囲んで北原三河守ら11人を切腹に追い込み、異を唱える者らを粛清しました。
この時、高原城主・白坂下総介はなんとか逃れて、島津一族の樺山善久を頼っています。
伊東義祐は更に飯野城に居た北原兼孝を殺害し、すべて伊東家の領地にしています。

こうして、飯野城以外の真幸院一帯は伊東家の支配下と変わり、残された北原一族は北原兼親の祖母の実家である人吉城の相良氏を頼って逃れました。

北原兼親

北原兼親(きたはら-かねちか)は北原兼泰の子です。
1562年に、白坂下総介が島津貴久に頼んで、この北原兼親を第14代にして北原家を再興したいと願い出ます。
こうして、島津貴久は、北郷時久・相良義陽にも協力してもらい、北原旧領で本城の飯野城を奪還し、北原兼親は復帰しました。
島津家や相良家の尽力により、馬関田城、横川城、三ツ山城なども回復しています。

しかし、北原兼親の叔父で吉松城主の北原左衛門尉が、秘かに飯野から島津家を追いだそうと画策した事が露呈して出奔するなど、北原家は足並みが乱れます。
また、1563年、島津家の台頭に危機感を抱いた相良氏が、突如、伊東家に寝返り、飯野の大明神城が落城しました。
また、北原兼親は不仲となった北原家臣の大河平隆次が守る今城から、島津の援軍300を引かせると言う理不尽な采配もあり、1564年5月には伊東義祐が大河平氏の今城を陥落させました。

更に踊城主・白坂佐渡介、高原城主・白坂下総介らも北原家より相次いで去ったため、北原兼親は領地維持が難しくなります。
これを受けて、島津貴久は、北原兼親に薩摩・伊集院の神殿村(こどん)村に30町の領地を与えて、移住させました。
これによりの北原氏は完全に島津家の家臣に組み込まれました。

そして、永禄7年(1564年)11月、真幸院には島津貴久の次男・島津義弘(30歳)が入って、飯野城を本拠とするのです。
なお、4km離れた加久藤城との連絡路を山中に設けて、飯野城と一体としたようです。
こうして、伊東義祐による飯野城攻撃を、島津義弘は何回も撃退しました。

日向・飯野城

北原兼親は、伊東家が衰退した1576年に、高原城の戦いにて島津勢として見受けられますが、それ以降の動向は不明です。

その後、1572年には、伊東家が3000にて真幸院に侵攻し、加久藤城を攻めます。
この際、木崎原の戦いとなり、島津義弘は、伊東家の大将・伊東祐安伊東祐信ら伊東一門5名と、落合兼置、米良重方などの重臣を討ち取ると言う大勝利を飾りました。

これ以降、伊東家は衰退し、1577年の伊東崩れとなります。

島津義弘は、耳川の戦い八代城攻めにも、この日向・飯野城から出陣するなど、約25年間と長い間、居城としました。

やがて、島津家の18代当主となった島津義弘は居城を大隅の富隈城に移し、九州の大半を手に入れます。
なお、嫡男・島津久保が飯野城主となって、真幸院を継承しました。
しかし、島津久保は朝鮮攻めの際に陣中で病死し、以後は島津宗家の領地となりましたが、元和元年の一国一城令によって、飯野城も廃城の運命を辿っています。

日向・飯野城への交通アクセスですが、JR九州旅客鉄道の吉都線「えびの飯野駅」にて下車して徒歩約60分となります。
なお、小林駅から宮崎交通バスの京町待合所行きに乗車して、大平バス停にて下車の徒歩約15分です。

道は細いですが、物見曲輪までは、クルマで上がっていけて駐車できるようです。

時間が余ったので訪問してみた飯野城ですが、ぜひ登って見たかったです。
しかし、折からの雪で、九州自動車道も通行止になっているような有様にプラスして、川内川の橋を渡ったあと、飯野城に繋がる道路が工事通行止になっていました。
もちろん、迂回路はあるのでしょうが、足元も悪いと断念してUターンした次第です。

もちろん、ご訪問の際には、木崎原古戦場跡とセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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