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肥前・名護屋城とは
肥前・名護屋城(なごやじょう)は標高85mの梯郭式平山城で、名護屋御旅館とも呼ばれます。
江戸城からだと陸路で約1190km、福岡県にあるのかなと思っていましたが、佐賀県の唐津市となります。
いや~、遠いです。
私もこの歳になって、ようやく訪問する機会に恵まれました。
国の特別史跡で、日本100名城にも選ばれています。
名護屋城があった場所は、松浦水軍で有名な松浦党の旗頭である波多氏の一族・名護屋経述(名護屋越前守経述)が領した垣添城があったとされます。
1590年の小田原城の北条氏直を滅ぼし、天下統一を果たした豊臣秀吉は、1591年8月に「唐入り」の準備を諸大名に命じます。
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その唐入りの為、朝鮮に渡る最前線の城として、適切な場所を探させていました。
そして、出身の名古屋と同じ名称のこの名護屋にある小高い山が「勝男山」と言う事で縁起が良いと選ばれ、この地に城を築く事になったのです。
分類上は平山城で、国の特別史跡、日本100名城にもなっています。
縄張りを担当したのは黒田孝高(黒田官兵衛)、普請奉行は中津城主・黒田長政、熊本城主・加藤清正、唐津城主・寺沢広高らが務め、本丸数寄屋や旅館などの作事奉行は長谷川宗仁、大手門は御牧勘兵衛尉と、それぞれ担当が決まっていました。
下記は大手門跡です。
下記は東出丸を外側から撮影したものです。
下記は「かげ溜池」の方向です。
各写真は、なにぶん梅雨空ですのでその点はご勘弁願います。
九州の諸大名を中心に動員し、僅か8か月後の1592年3月に巨大な名護屋城が完成していますが、石垣は即席工法だった為か?、結構崩れてしまっています。
なお、天正18年5月(1589年)の年号が入っている瓦も発見されていることから、加藤清正が先行して一部を造営していたとも考えられていますが、恐らくは工事を進める為の宿舎を先行して建てて、それも城の屋敷かなにかに活用したのでは?と言う感じが致します。
下記は東出丸の櫓跡です。
石垣も粒が揃っていないので、ゆっくり作ったと言うよりは、急いで積み上げると言う「時間」を最優先したような流儀になっています。
当時の城郭では大坂城に次ぐ壮大な規模との事です。
下記は三の丸入口ですが、先が見えにくくなっている構造のようです。
三の丸に入り、前方に見える階段を上がると本丸大手門です。
三の丸には「井戸」もありました。
地面が濡れていてお見苦しい点はお許し願います。
航空など予約していた「私」の九州入りが、大河ドラマ「真田丸」で名護屋城の放送と、ちょうど重なってしまいました。
そのため平日とはいえ、名護屋城の観光客も多いかな?と予測していたのですが、あいにくの雨天の空模様と言う事もあり、そんなにいませんでした。
城域で見かけたのは約10名くらいです。
下記は本丸の入口となり、本丸大手門跡です。
本丸に入っても誰もいませんでしたが、大河ドラマ「官兵衛」の放送の時にも訪問者は増えたと言います。
しかし、とても広い城ですので、そんなに心配することは無いでしょう。
名護屋城には本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西の隅には望楼型5重7階の天守が築かれました。
本丸の中としては一番、海が良く見える場所ですね。
ページ冒頭写真の名護屋城址の石碑は、日露戦争で有名な東郷平八郎元帥の揮毫です。
ただし、思っていたより、天守台としては石垣の高さも低いです。
とにかく完成を急いだのでしょうか?
この名護屋城の周辺には、朝鮮攻めするための各大名の陣屋が、確認されているだけで118箇所も配置されていたそうです。
天守台跡からは、玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ島々が良く見える・・・はずでした。
ここからは晴れていれば壱岐や対馬も見えるそうですが、申し訳ありません。
下記は天守台跡です。
天守から望む、二の丸跡は左側で、土塁の右は遊撃丸跡になります。
とても広いですね。
下記は多聞櫓跡となりますが、発掘後の保護の為か?、地面はコンクリで固められています。
その本丸・多聞櫓の崖は、下記のような感じです。
1592年4月1日に第一陣として小西行長・宗義智が対馬経由で朝鮮に渡ります。
このように兵の派遣、補給、指揮連絡の拠点として、肥前・名護屋城は重要な役割を果たしました。
三の丸に戻って「馬場」の方に向かってみます。
名護屋城の縄張りこそ、黒田官兵衛であり、普請も加藤清正ですので、それなりに考えられて築城されているのがわかりますが、もっと急峻な崖など防御面が優れた高いところにあるのかな?と、勝手にイメージしていました。
しかし、五層七階の天守があった天守台の標高85mに対して、北の門があった位置で標高57mでして、比高は僅か28mと、高低差は比較的緩いため、見学する側にとっては周りやすい城です。
それらを考えますと、名護屋城の縄張りは、明や朝鮮の軍勢を意識したと言うよりは、味方の裏切りを警戒するのに主眼に置いたような設計?のような気が致しました。
もっとも、急いで重ねたような石垣と言い、急造の城にしては、規模が大きすぎて、その築城は並大抵ではありません。
惜しみなく尽力と財力、そして労力が使われたものと分かります。
ただし、逆に高さを抑えていた為、それだけの短期間で完成した可能性もありますので、高低差は妥協の範囲なのかも?知れません。
なお、桝形などの技巧は、もちろん取り入れられています。
豊臣秀吉は1592年4月25日に名護屋城に到着しますが、全国から集まったのは武将や家臣だけではありませんでした。
待機している徳川勢などの大軍が、ずっとここにいる訳ですので、モノが売れます。
そのため、商人も多数移住しており、人口20万人を超える城下町ができたと言います。
しかし、多くの人が飲む水源が不足していたようで、水不足による喧嘩が絶えなかったとも伝わります。
ここまで来たら、なんだか「ラピュタの城」のようにも思えてきました。
朝鮮攻めが失敗に終わり、完全撤退すると寺沢広高の領地となり、関ヶ原の戦いのあと唐津城の大改修を実施した際に、名護屋城の建物などが移築されたとあります。
そのひとつの移築建物としては下記のページにてご紹介もさせて頂いております。
・安田国継とは~本能寺の変にて織田信長に傷を負わせたあと森蘭丸を討ち取った安田作兵衛
下記は二の丸跡になります。ここも広いです。
朝鮮から完全撤退したあと、名護屋城は破却されることになり、石垣の四隅などを崩したとあります。
名護屋城の大手門は伊達政宗によって仙台城に移築されたとも伝わります。
さて、ここまでは、大手門から三の丸、そして本丸から三の丸に戻って、馬場を抜けて、二の丸、船手口から水手口へと降りてきました。
下記が水手口です。
この近くにはトイレ以外に無料駐車場もあります。
水手口から民家の脇にある細い路地を下がったところ「台所丸」には「太閤井戸」と言う大井戸があります。
水手口に戻って、坂を登り再び本丸方面に登って行きます。
下記は本丸の下にある曲輪で、山里曲輪の一部となります。
1997年には名護屋城跡の山里丸(豊臣秀吉の居館跡)にて、茅葺の草庵茶室跡が発見され「茶室」があったのが確認できました。
現代の名護屋城跡にも、別の場所にはなりますが茶苑 「海月」という茶室があります。
名護屋城に赴いた豊臣秀吉は、さっそく、名護屋越前守経述の妹・名護屋広子が美女で誉れ高いと聞いて側室に迎え、山里丸に住まわせました。
このとき名護屋広子は20歳で、広沢局と呼ばれるようになっています。
その後、豊臣秀吉は広沢局のために1597年に「広沢寺」を建立しました。
寺の石段は、刀の鞘づくりで有名な名人・曽呂利新左衛門の設計によるものとも言われています。
しかし、1598年に名護屋経述(名護屋越前守経述)夫婦が急逝し、豊臣秀吉もこの世を去ります。
未亡人となった広沢局は仏門に入り「妙廣禅尼」として、広沢寺にて64歳で亡くなるまで、豊臣秀吉と兄夫婦、そして朝鮮の役の戦没者の菩提を弔ったと言います。
そして、広沢寺の片隅には、広沢局の墓がひっそりと建っているそうですが、山里丸に入ったとたん、雨が非常に強くなったため、今回、広沢寺は断念しました。
そのため、写真もこれまでとなっています。
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名護屋城の特別サービスと致しましては「バーチャル名護屋城」と言うアプリがあります。
自分のタブレットやスマホでもインストールすれば、420年前にあった名護屋城を体験できると言う非常に優れたものですが、私は始めての訪問と言う事もあり、あえて使わないで、現状の名護屋城を体験し「想像」する形で散策してみました。
もっとも、豪雨になったり急に止んで晴れたりと、天気も目まぐるしく変わりましたので、バーチャルする余裕もなかったのですが、やっぱり、外観だけでもしっかりさせた、張りぼての建物で良いので「復元」されている方が良いと思うのが心情です。
やっぱり、何もないとただの城跡に過ぎませんので、天守くらいは募金も募ってみてはいかがでしょうかね?、佐賀県さん?
交通アクセス
名護屋城へのアクセスですが、電車の場合は、JR唐津線の筑肥線唐津駅からクルマやタクシーで30分。
マイカーの場合は、長崎自動車道多久ICから車で60分。
バス利用の場合は、唐津市大手口バスセンターから、昭和バスの「波戸岬」行きに乗って、名護屋城博物館入口バス停下車の徒歩5分です。
駐車場は名護屋城跡の大手門駐車場(60台)、多目的広場・茶苑「海月」の駐車場90台、道の駅「桃山天下市」に50台など、いくつか点在します。
一番便利な大手門駐車場は下記のポイント地点が入口となります。
名護屋城の見学所要時間ですが、非常に広大ですので、本体だけで最低約2時間掛かるようですが、私の場合は雨と言う事もあり、約60分で済ませました。
ただし、各大名の陣屋も見ると、更に時間を要すると言う事になります。
名護屋城はきちんと下草も刈るなど整備されています。
しかし、夏季は草が生えますので、大名の各陣跡を見学するのはちょっと困難です。
そのため、各陣屋は、その場所を示す印だけ今回撮影しています。
今度、再訪する場合には、冬季に訪れてみたいものです。
無料の名護屋城博物館は一度見て置く価値はあります。
ちなみに、名護屋城博物館では、朝鮮半島と日本との交流の歴史を調査・研究した展示もあり、韓国との友好推進にも力を入れているようです。
また、バーチャル映像が表示されるタブレットを100円で貸し出ししてくれる他、スマホなどにもアプリをダウンロードできます。
おまけ「諸将の陣跡」
現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国特別史跡の指定を受けています。
その他の陣屋跡の多くは現在「私有地」になっていますので、陣跡は勝手に立ち入りますと法律違反(不法侵入)に問われる場合があります。
事前に地権者より許可を取るのが無難ですし、今回は立ち入りまではしませんでしたが、下記の通り撮影した箇所をご紹介致します。
まずは長宗我部元親と石田三成の陣跡です。
写真正面の山の上にあった?模様です。
下記は堀秀治の陣跡ですが、雑草が生い茂っており、入る気もしません。
下記から入れば、北条氏盛の陣跡ですが、雨が降り出したので、陣跡の写真は、入口の説明のみとなること、お許し願います。
島津義弘の陣跡。
直江兼続も大名格にて陣を授かったようですね。
近くには上杉景勝の陣跡。
下記は宇喜多秀家の陣跡です。
このように集結した有名どころの大名は約120ですので、戦国時代の「オールスター」が勢ぞろいしたと言って良いでしょう。
あまり知られていませんが、当時、豊臣家の軍門に下り、槇島城主として1万石を与えられていた「足利義昭」も、由緒ある名家や奉公衆など軍勢200を従えて名護屋まで参陣したので、足利義昭の陣屋もあります。
なお、真田昌幸の陣跡だけは、足が滑りそうになりながらも、危険を顧みず強固突入しましたので、下記ページにてまとめてあります。
よければご覧頂けますと幸いです。
・肥前・名護屋城からちょっと離れた真田昌幸陣跡にある「サナダサエモン様の墓」
・寺沢広高とは~関ヶ原では東軍としてまた虹の松原などで慕われた唐津城主
・豊臣秀吉の実像に迫る~本当の出自は?【木下藤吉郎の真実】
・松浦隆信と松浦鎮信は弱小勢力から脱却に成功~平戸城の訪問記
・お城に行くのに便利なオリジナルGoogleマップ
この記事は戦国武将列伝Ωの記事を再編集したものです。
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