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尾張・長尾城の解説~荘官から地頭・そして滅亡

長尾城

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尾張・長尾城とは

長尾城(ながお-じょう)は現在の愛知県知多郡武豊町にあった平城です。
武豊町の前身である武豊村は、明治11年(1878年)長尾村と大足村が合併して成立した物で、長尾村の産土神である武雄神社と、大足村の産土神である豊石神社から一文字ずつ取って武豊と名づけられました。
明治24年(1891)年に武豊町となり、昭和29年(1954年)に富貴村と合併して、現在の武豊町となりました。
武雄神社の創建は奈良時代以前と伝わっており、境内は「月詠之森」と称する景勝地であり、外に目を向けると祠峯社、山の神社、白山社、天神社、八幡社、若宮社、神宮社の七つの境外社を持つ知多半島有数の大社でした。

長尾七社
〇現在は武雄神社境内に移された七社

長尾城の城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたと伝えられていますが、京都にある石田の杜(いわたのもり)の出自で、鎌倉時代に枳豆志(きづし)庄という荘園の一部であった時に、鎌倉の有力御家人であった名越朝時(なごえ-ともとき)の代官として赴任してきました。
名越朝時は鎌倉幕府2代執権である北条義時(ほうじょう-よしとき)の次男ですが、一時は鎌倉3代将軍源実朝(みなもと-さねとも)の怒りを買って失脚し、その後和田義盛(わだーよしもり)の乱や承久の変で武功をあげたため、許されて加賀、越後、大隈の守護に任ぜられた人物です。
名越氏の代官として移り住んできた岩田氏は次第に勢力を拡大していき、武雄神社の南に隣接するように長尾城を築城しました。

武雄神社の由緒板
〇武雄神社の由緒板

武雄神社境内には「長尾城址」の看板がありますが、実際には岩田氏の居館であり、長尾城の主郭は武雄神社の南隣にあった比高4m程の丘陵部に築かれていたとされ、江戸時代の絵図には南北100m×東西40m程の規模で、四方には本神戸川の水を引き入れた堀を持っていたと記されており、さらみはその外側にある池や川を繋いで外堀とし、長尾山の山頂や若宮社の南方など各所に砦を築いたと言われています。
江戸時代以前には城郭としての機能が失われてしまったものの、江戸末期頃までは丘陵地帯が広がっていました。
しかし、国鉄武豊線が建設された際には堀切に線路を通した上で本城の東側を削って駅舎や宿舎などを建てておりおり、伊勢湾台風で起こった水害の影響で残された丘陵部を削平して埋め立てを進めるなどした結果、城の手前まで迫っていた海岸線も500m程先になっています。

武豊転車台
〇JR武豊駅の先にかつて存在した国鉄武豊港駅付近に残る転車台

歴史

嘉元3年(1305年)の史料によると、枳豆志庄は藤氏長者の殿下渡(でんかわたり)領のうち東北院領で免田80町、年貢八丈絹29疋、六丈凡絹9疋と明記されています。
元弘3年(1333年)建武の新政以降の南北朝の動乱期においては、前述したように岩田氏は北朝側に味方しており、建武4年(1337年)枳豆志庄は近江国の園城寺に「尾張国枳頭子庄」内の名越遠江入道跡が寄進したと記され、足利幕府成立後の暦応5年(1342年)の『左大将家政所注進当知行地目録案』にも引き続き東北院領として枳豆志庄は記されており、室町幕府3代将軍の足利義満(あしかが-よしみつ)が、明徳元年(1390年)美濃瑞巌寺に「尾張国玉江枳豆志領家職」を安堵していますが、応永15年(1408年)には尾張国守護職の斯波義教(しば-よしのり)に枳豆志庄の知行を命ずる御教書を出しています。
正長2年(1429年)に記されたと言われている『醍醐寺方管領諸門跡等所領目録』には宝池院領として、文安6年(1449年)の『三宝院門跡管領寺社諸職所領目録』には三宝院領として枳豆志庄の名前は見えており、南北朝の動乱期に様々な経過を経たうえで、室町時代には醍醐寺(京都府)の寺領として定着したと思われます。
岩田氏は出身国の縁によって醍醐寺三宝院の荘官となり、土着して知多郡随一の土豪に成長たと考えられ、最大時期の勢力範囲は枳豆志庄の全域に渡り、一説には6万石ほどの石高があったとも言われています。

同時期の知多地域は三河守護に任じられた一色氏の勢力が拡大しており、観応元年(1350年)頃には現在の常滑市北端に大野城を築いて伊勢湾の海運を掌握した上で岩田氏と敵対姿勢を高めていきます。
これに対し、岩田氏は西に苅屋城(かりや-じょう:常滑市苅屋)、南には冨貴城(ふき-じょう:武豊町冨貴郷北)や布土城(ふっと-じょう:美浜町布土明山)などを築いて支城としますが、一色氏は三河、若狭、丹後、山城の4ヵ国と尾張東部・知多地域の分郡を守護する守護大名となり、名実共に知多半島を支配していきます。

冨貴城
〇長尾城南部に築かれた冨貴城跡

一色氏の勢力拡大に対して、享徳3年(1454年)長尾城主の岩田源秋(いわた-げんしゅう)が一色氏の奉公人として仕える事を誓約した請文が醍醐寺文書から見つかっていますが、文明10年(1478年)応仁の乱の終息と共に一色氏は三河・尾張から撤兵したため、知多半島西部は一色氏の代官である佐治氏、南部は渥美半島から勢力を伸ばした戸田氏、北東部は水野氏と共に中央部は岩田氏などの国人領主が割拠し、派遣を争う時代へと突入します。

天文年間(1532年~1555年)中期に入ると、駿河・遠江の守護大名である今川氏が勢力を拡大して三河を支配し、知多半島の諸豪族は今川氏に加担しますが、今川氏に与していた緒川城(おがわ-じょう)の水野信元(みずの-のぶもと)が織田氏に寝返り、天文16年(1547年)には織田方の久松氏と姻戚関係を結んで知多半島制圧に向けて南下を開始。
宮津城の新海淳尚(しんかい-あつひさ)、成岩城の榎本了圓(えのもと-りょうえん)らを滅ぼして長尾城へとその矛先を向けます。

成岩城
〇成岩城城址碑
※2015年撮影:一帯は再開発が行われており、現在の城址碑は写真と異なる位置に移設されています。

城主の岩田安広(いわた-やすひろ)は決死の覚悟で籠城戦を挑もうとする面々を説得し、自ら剃髪し杲貞(こうてい)と号して、僧形となって水野氏の本陣に赴き降伏しましたが、長尾城の将兵は戸田氏が占拠した冨貴城攻めの先鋒に投入され将兵の大半は討ち死にを遂げますが、武雄神社の棟札から「奉修造長尾天王安全守護攸 弘治二年丙辰正月尾州智多郡枳豆志荘長尾城主岩田左京藤原安廣」(※弘治2年は西暦1556年)と記された物が発見され、水野氏の支配の元で岩田氏は長尾城主の地位を保っていたと思われます。
その後、今川氏の勢力が知多半島まで及ぶと、岩田氏は今川氏に従いましたが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦い今川義元が敗死すると長尾城は廃城となり、岩田氏は歴史の表舞台から名前が消えたと考えられています。

交通アクセスと登城

推奨ルート:
JR武豊駅→(徒歩5分)→武雄神社

公共交通機関を利用する場合、JR武豊駅が最寄り駅となりますが、本数が多くないため、距離は多少離れますが名古屋鉄道知多武豊駅からも訪問可能です(知多武豊駅から武雄神社まで徒歩約15分)
自家用車で訪問する場合は武雄神社の南側にある参拝者用駐車場を利用しますが、周囲の道は細く、見通しが良くない箇所も多いため、運転には十分注意してください。

武雄神社
愛知県知多郡武豊町上ケ8

武雄神社境内
〇武雄神社境内

その他関連施設等
・転車台ポケットパーク
愛知県知多郡武豊町忠白田説明

武豊停車場跡地の看板
〇停車場跡地の看板

・冨貴城
愛知県知多郡武豊町冨貴郷北101

円観寺山門
〇円観寺
白山神社から円観寺一帯が冨貴城跡とされます

・布土城
愛知県知多郡美浜町布土平井39

布土城(神明社)
〇神明社
神明社から西側に位置する寶林寺一帯が布土城跡とされます

・苅谷城
愛知県常滑市苅屋町4-158

苅谷城
〇苅谷城跡
写真にある突端からさらに西側に岬が伸びており、その上に苅谷城はあったと言われていますが、波の浸食により海中に没したと伝わっています

(寄稿)だい

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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