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尾張・赤目城とは
赤目城(あかめ-じょう)は、愛知県西部に位置する愛西市の西側、現在では岐阜県と愛知県の境目を流れる木曽川沿岸に建てられた平城です。
この地帯では、古墳時代に入ると定住する人が増え、古墳を含めた遺跡が急増しており、八開地区(旧八開村)には細野古墳、角野古墳と呼ばれる遺跡からは、巨石や須恵器などが出土していますが、両遺跡とも昭和初期に削平され、現在では消失しています。
その南側に位置する定納遺跡(じょうの-いせき)からは、円筒埴輪の小片が二点出土しており、その形状から五世紀後半から六世紀前半頃の尾張型埴輪の一部と推定されているようです。
その後、肥沃な地である木曽川河畔の集落は発展を遂げていったと思われますが、河川の氾濫なども多かったようで、残されている地域の伝承などは極めて少ないようです。
鎌倉時代末期、鎌倉幕府第14代執権である北条高時(ほうじょう-たかとき)の次男として生まれた北条時行(ほうじょう-ときゆき)は、幼少時に起こった元弘の乱により本拠の鎌倉が落とされ、北条高時を始めとした北条一門の多くは自害。事実上鎌倉幕府は滅亡します。
北条高時は被官の諏訪盛高(すわ-もりたか)によって鎌倉から連れ出され、諏訪市の本拠地である信濃の国に匿われ、10歳(諸説あり)を迎えた建武2年(1335年)、諏訪氏などの御内人に加え、三浦氏を中心とした関東有力武家の一部が加わり一時は鎌倉を落とす勢いでしたが、次第に劣勢に追い込まれ、太平記によると鎌倉の三大寺社の一つであった勝長寿院(現在は廃寺)において諏訪氏を含め43名の大名が自害したが、北条高時は鎌倉を脱出し、再び逃亡生活を送る事になります。
延元元年/建武3年(1336年)室町幕府を開いた足利尊氏(あしかが-たかうじ)と袂を分かった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、京都を逃れて大和国吉野で南朝を開き、京都を制する室町幕府の北朝と対峙します。
延元2年/建武4年(1337年)北条時行は南朝に帰順し、新田義貞(にった-よしさだ)の次男である新田義興(にった-よしおき)や北畠顕家(きたばたけ-あきいえ)らと共に鎌倉を落とし、翌延元3年/建武5年(1338年)1月2日には京の奪還を目指して鎌倉を出陣します。
北条時行らの軍勢は、現在の岐阜県・愛知県の境を流れる長良川の一部と言われる洲俣河の戦いでは高重茂(こうの-しげもち)が率いる3000騎と戦って幕兵300を敗死させ、美濃国青野原では高師冬(こうの-ものふゆ)・土岐頼遠(とき-よりとお)らと交戦し勝利していますが、和泉国石津で起きた戦いで北畠顕家が討ち死にし、軍勢は瓦解します。
徳川光圀(とくがわ-みつくに)の編纂事業による『参考太平記』によれば北条時行は宗良親王と同じ船団に乗り合わせており、宗良親王と共に遠江国井伊城に入ったと記されています。
歴史
赤目城は愛知県郷土資料刊行会が編纂した『尾陽雑記』によると、北条時行と熱田大宮司家の女の間に生まれた北条時満(ほうじょう-ときみつ)の子である北条時任(ほうじょう-ときとお)が愛知郡横江村に逃れ、明応2年(1493年)孫の横井時永(よこい-ときなが)が定納遺跡付近に赤目城を築いて横井氏を称します。
その後、延宝3年(1675年)に当時落伏(おちぶせ)村と称していた現在地に地名ごと移転したとされており、定納遺跡近辺は元赤目町と呼ばれるようになりました。
なお、赤目城が移転した時期には諸説あり、関ヶ原合戦以降と言う説もあり、落伏村から赤目村に村名が改められたのは、安永3年(1774年)時の城主である横井時勝(よこい-ときかつ)によるものだと伝わっています。
2代目城主の横井時勝(よこい-ときかつ)は足利義輝(あしかが-よしてる)に仕えており、3代目の横井時延(よこい-ときのぶ)は織田信長(おだ-のぶなが)の家臣として伊勢長島攻めなどに加わったと記録に残っています。
嫡子の横井時泰(よこい-ときやす)も織田信長に仕え、天正2年(1574年)には岐阜城に忍んできた敵を退けた事で、織田信長からの賞賛を受けており、本能寺の変で織田信長が死去した後は尾張を支配する織田信雄(おだ-のぶかつ)に仕え、小牧長久手の戦いを機に徳川家康の配下となります。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍の福島正則(ふくしま-まさのり)の配下に属して福束城を攻略。本戦では南宮山一帯に布陣した長束正家(なつか-まさいえ)や安国寺恵瓊(あんこくじ-えけい)らの軍を追撃しています。
その軍功により、赤目横井家を本家として、藤ケ瀬横井家、祖父江横井家と三家に分かれ、尾張徳川家に附属した後には生駒家などと共に、尾張衆と呼ばれる家臣団の一員となったと伝わっています。
赤目城の一角に建てられた赤城神社の看板によれば、祭神である4代横井時泰は狩猟を好み、系譜書には「時泰、遊猟を好み、鶻鷹(はやぶさ)を放ちて鳥禽を捕ら令む、其の品格甚だ妙也」と記されており、祖父江横井家の当主は代々尾張藩の鷹匠頭に就任し、赤目を含む一帯を専用鷹狩場所として尾張藩から拝領しています。
赤目城の廃城時期は不明ですが、は江戸時代の一国一城令もあり、城と言うよりは館として引き続き機能していたと思われ、城門は城の北西にある一心寺に移築されましたが、水害による倒壊があり、現在の門は大幅に修復された物と言われています。
交通アクセスと登城
推奨ルート:
近隣には公共交通機関は無く、自家用車での訪問をお勧めしますが、駐車時は道路脇のスペースを利用する事になるため、近隣にお住まいの方の迷惑にならないように注意してください。
定納遺跡の看板→(車1分)→定納白山神社→(車5分)→一心寺(車3分)→赤城神社
・定納遺跡の看板
愛知県愛西市二子町(高須街道脇)
・定納白山神社(旧赤目城)
愛知県愛西市二子町松原9
・一心寺
愛知県愛西市赤目町中屋敷154
・赤城神社(赤目城跡)
愛知県愛西市赤目町杉土居
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