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尾張・黒田城とは
黒田城(くろだ-じょう)は愛知県一宮市木曽川町黒田字古城にあった平城です。
黒田の地は木曽川と鎌倉街道が交わる要所にあり、木曽川の北方に渡ると笠松の地を経て岐阜に出る事ができ、南へは鎌倉街道に沿って尾張一宮である真清田神社を通り、清州以前の尾張の中心地であった下津(おりづ)の地を経由して清州へ、西の木曽川を渡ると墨俣を経由して大垣から関ヶ原へと進み、東は小口城下を抜けて犬山へ移動します。
尾張と美濃を隔てる木曽川沿岸は古来より紛争の地でもあり、鎌倉街道沿いにも位置する黒田の地に城館が築かれたのは明応(1492年~1500年)年間、相模国の五藤源太左衛門光正が初めてと言われていますが、一部の史料によっては後藤光秋と記載されている物もあるようです。
この時代の城は居館程度の物でしたが、五藤氏は戦国時代にこの地に入った山内氏の支配下に入り、山内一豊(やまのうち-かずとよ)が浅井・朝倉氏攻略戦等に参戦するとそれに従い、金ヶ崎の戦いで山内一豊の顔に矢が刺さると、五藤為浄(ごとう-ためきよ)は山内一豊の顔を踏んで矢を抜き、主君の命を救っています。
五藤為浄は、主君の顔を踏んだ事を詫びましたが、わらじと矢を家宝にしたと伝わっています。
その後、後藤氏は山内家が土佐藩主になるとこれに従い、安芸土居の地を与えられ、幕末まで代々土佐藩の家老職を務めています。
歴史
黒田城は寛文村々覚書、張州府志、尾張志、尾張名所図会など多数の書物にその記載があり、いずれの文書にも東西118m、南北115m余の広さで、東には一重、西に二重、南には三重に堀を廻らしていたと記されています。
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天文年間(1532年~1555年)初期頃、尾張上四郡を支配していた岩倉城主の織田信安(おだ-のぶやす)が支配する地域となり、岩倉織田家の家老職を務める山内盛豊(やまうち-もりとよ)が城代として黒田城に入ります。
周囲に走る緊張の中、天文14年(1545年)山内盛豊の三男として、後年土佐藩の藩主となる山内一豊(やまうち-かずとよ)が黒田城内で誕生します。
※山内一豊の誕生年は天文15年(1546年)説、誕生地は岩倉城であったと言う説もあります。
弘治年間頃、岩倉城主の織田信安は織田信長との対立関係が激しくなり、弘治3年(1557年)対立する織田信長の軍勢の夜襲を受け、山内盛豊の長男十郎が討ち死に、山内盛豊は重傷を受けて山内一豊と共に岩倉城に撤退する事となりましたが、永禄2年(1559年)岩倉城が落城する際に山内盛豊も討ち死にしたため(諸説あり)山内一豊は流浪の身となります。
黒田城は、犬山城主織田信清(おだ-のぶきょ)の弟である織田広良(おだ-ひろよし)が城主となりますが、永禄5年(1562年)美濃の軽海で討ち死にを遂げたため、犬山織田家の家老である和田定利(わだ-さだとし)が城主となります。
なお、尾張志には、築城主として和田河内守と言う名前が記されており、和田定利と同一人物とも考えられますが、和田定利は足利氏に奉公衆として仕えていた和田惟政(わだ-これまさ)の実弟であり、織田信長が足利義昭(あしかが-よしあき)と近い関係にあった際に配下になったとされているため、同姓別人の可能性も否定できません。
ともあれ、美濃と尾張の間だけでなく、尾張内部での勢力争いも激しくなる中で、この頃から黒田城は城館から本格的な城郭へと変貌を遂げていったと考えて間違いはなさそうです。
その後、犬山城主の織田信清と織田信長の間が不和となると、和田新助は織田信長からの誘いを受けて配下となりますが、天正2年(1574年)長島一向一揆攻めに出陣して討ち死にを遂げたため、弟(嫡子説も有)の和田定教が(わだ-さだのり)城主となりますが、なんらかの理由で放逐され、一旦黒田城は主不在となります。
天正10年(1582年)本能寺の変が起きると、尾張の地は織田信雄(おだ-のぶかつ)の支配する所となり、黒田城は北東に約1km程度に本拠を持ち、織田信雄が茶筅丸と名乗る頃からの傅役であった澤井雄重(さわい-かつしげ)が城主となります。
澤井雄重は国境近辺の尾張北東部一帯を大過なく治めており、天正12年(1584年)に起こった小牧長久手の戦いでは豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)勢からの攻撃から黒田城を死守し、黒田城の攻略が困難と見た豊臣秀吉から調略を頻繁に受けたものの、これに応ぜず城を含めた一帯を豊臣軍より守り抜いたと伝わっています。
これを聞いた徳川家康からは感状と太刀を与えられ、織田信雄からは15,000貫文余りの領地を賜ったと澤井家文書には記されています。
澤井雄重は織田信雄の転封拒否のあおりを受けて一旦領地を失いますが、福島正則(ふくしま-まさのり)が清州城主となるとこれに従い、慶長5年(1600年)に起きた会津征伐の際には清州城の留守居役の支配下に入り、関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる竹ヶ鼻城攻めでは、籠城軍の中に旧知の武将がいたため、降伏開城させる事に成功。
福島正則が安芸に転封後も尾張に残り清州城主の松平忠吉(まつだいら-ただよし)に仕えて3,000石を拝領したと清州分限帳にあります。
天正18年(1590年)小田原征伐時に山中城を攻めた子飼い武将として育成してきた一柳直末(ひとつやなぎ-なおすえ)が討ち死にすると豊臣秀吉は弟の一柳直盛(ひとつやなぎ-なおもり)に家を継がせ、黒田城を与えて二万石の大名とします。
一柳直盛は関ケ原の戦いでは徳川家康(とくがわ-いえやす)に付いて戦功を挙げ、伊勢神戸城主に移封されると、黒田の地は尾張藩の支配する所となり、黒田城は廃城になったと伝わります。
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交通アクセスと登城
推奨ルート:
黒田城跡近辺には駐車場がありませんので、公共交通機関での訪問をお勧めします。
JR木曽川駅、もしくは名鉄新木曽川駅→(徒歩6分)→黒田城跡→(徒歩2分)→法蓮寺
黒田城跡
愛知県一宮市木曽川町黒田古城26-2
法蓮寺
一宮市木曽川町黒田勘治西60
その他関連施設等
澤井屋敷
一宮市木曽川町黒田山99
岩倉城
岩倉市下本町城址121
神明生田神社(岩倉城近辺に建つ山内一豊誕生地)
岩倉市下本町下市場25
(寄稿)だい
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