穆佐城(むかさじょう)は、宮崎県宮崎市高岡町小山田にある平山城で、付近はみかん畑がたくさんあります。
穆佐院高城とも呼ばれる日向三高城のひとつで、国指定史跡に指定されています。
南北朝時代となると、足利尊氏の直轄領として築かれた模様で、一族の畠山直顕が穆佐城に派遣されると拠点となりました。
日向に下った畠山直顕(はたけやま-ただあき)は、最初に国冨荘の土持氏や日下部氏らを幕府側に掌握します。
そして、1338年には伊東祐広や野辺盛忠を攻略し、翌年には最も強力であった三俣院の月山日和城(三俣院高城) を本拠とした肝付兼重を屈服せさ日向を平定しました。
スポンサーリンク
畠山直顕は月山日和城に入り、1345年に日向守護となったったようですが、薩摩・島津貞久との争いになります。
1357年、志布志城を攻めた際に、島津氏久に大敗しただけでなく、南朝・後醍醐天皇の皇子である懐良親王を迎えた菊池武光から、1358年11月には穆佐城を攻められて、畠山直顕は日向から豊後方面に逃れました。
その後の、畠山直顕の動向は不明です。
穆佐城は島津領となり、功績があった伊集院久氏(いじゅういん-ひさうじ)と言う、島津一族の武将が穆佐城に入った模様です。
その後、伊東祐安の脅威に対して日向守護・島津元久が自ら穆佐院に入ったため、伊東家と島津家は争いとなります。
1401年頃、島津元久の弟・島津久豊(しまづ-ひさとよ)は日向・穆佐城主となると、伊東祐安の娘・寿山夫人を娶りました。
この行為に兄・島津元久は反対したため、兄弟の仲は悪化しています。
1411年にその兄が死去すると、後継者でる甥の伊集院煕久を追放して島津久豊が島津家の8代当主となりました。(伊集院の乱)
この混乱に乗じて、伊東祐立は1412年に穆佐城を攻撃して、妹の寿山夫人と2人の子(島津忠国・島津友久)を捕らえようとしました。
しかし、落城寸前に樺山教宗・北郷知久が妻子を救出しています。
1413年、島津家は反撃に出て、樺山教宗・北郷知久が日向・曽井城を攻撃しましたが、伊東祐立は籠城に徹して撃退しています。
1431年には再び島津氏が穆佐城を奪還しましたが、1445年に伊東祐立が穆佐城を占領すると、落合治部少輔を置き、以後は戦国時代まで伊東家の支配下となりました。
伊東義祐の頃、穆佐城は「伊東48城」のひとつとなっています。
天正5年(1577年)、伊東崩れによって伊東義祐と伊東祐兵が佐土原城から豊後の大友宗麟を頼って逃れると、島津家の所領となり、樺山則久が穆佐城主となっています。
豊臣秀吉の九州攻めのあと、伊東祐兵に清武城・曾井城の2万8000石が与えられていますが、このときも穆佐城は島津氏の支配となっています。
関が原の戦いのあと、豊臣勢の侵攻を警戒して、島津義久や島津義弘は北方に日向・高岡城を新築し警戒しました。
慶長20年(1615年)の一国一城令ではさすがに廃城となりました。
スポンサーリンク
今回は駐車場がないと言う事前情報の関係で登りませんでしたが、移転した穆佐小学校の跡地の奥のほう、旧小学校の校門をまっすぐ進んだ先に、案内板と登城口があるそうです。
ぜひ、駐車場も整備されるとうれしく存じます。
・清武城~稲津重政と妻・雪絵の死
・伊東祐堯~日向伊東氏の中興の祖とされる名将
・伊東義祐~日向から南九州の覇権を争うも伊東崩れで没落
・伊東祐兵~所領を失うも巧みに戦国を生き抜き3万6000石にて復活
・志布志城と鎌田政近~松尾城・内城・高城・新城からなる城郭群
・日向・高岡城(天ヶ城)と野村文綱(野村備中守文綱)
・佐土原城~伊東家の本拠としても栄華を誇り天守もあった山城
・月山日和城(三俣院高城)~霧島連山や桜島まで望むめると言う重要拠点
・九州の史跡探訪用オリジナル地図(カーナビ代わりにも)
この記事へのコメントはありません。