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安達盛長の三田屋敷?「厚木・三田」聖眼寺

安達盛長の三田屋敷

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聖眼寺とは

聖眼寺(しょうげんじ)は神奈川県厚木市三田(さんだ)にある寺院。
高野山真言宗寺院で東寶山觀音院と号している。
聖眼寺は、園城寺(三井寺)などで有名な天台寺門宗の宗祖である智證大師・円珍(814年~891年)が創建したと伝わるが、新編相模国風土記稿では信用できないとしている。
その後、清譽と言う僧侶(1268年寂)が元寇の頃?に中興開山したと言う。

安達盛長の三田屋敷

聖眼寺の場所には、鎌倉時代初期の有力御家人・安達盛長(安達藤九郎盛長)の屋敷があったとされる。
現在は聖眼寺となっているが廃仏毀釈にて本堂など壊したようで、観音堂と墓地しか残っていない。 

また、聖眼寺には安達藤九郎の墓とされる墓石もあるようだが、予定外の訪問だったためそんなのあるとは知らず確認しなかった。


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安達盛長の墓とされるものはこのあたり各地にあり、七沢温泉の金剛寺・大師堂裏にもある。
そのため、厚木の三田も含めてこの一帯は安達氏の領地だったのだろう。
ただし、横山党の支配下だったと考えられるため、和田合戦のあとに加増を受けたものと推測できる。

安達盛長の三田屋敷

ちなみに、和田義盛の乱にて横山党や愛甲氏は壊滅し毛利荘大江広元に与えられ、4男・毛利季光が毛利荘の領主となりのち戦国時代毛利元就に繋がっている。
大江広元は八王子方面を加増された。
ちょっと時代は後になるが北条宣時(北条朝直の子)に仕え佐渡守護代となった本間重連は、横山党・海老名氏の一族と考えられ中津川と相模川の間「依知」を所領としている。

なお、県道の入口にある山門のような石塔には「足利尊氏公墓所」と言う文字も刻まれている模様。
七沢温泉の金剛寺も足利尊氏にゆかりあるため、鎌倉幕府滅亡後か?、三田も七沢も足利尊氏の所領となっていたと考えられる。


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ひとつ気になったのは金子さんと言うお墓が多かったと言う事。
金子氏と言うと、室町時代に扇谷上杉氏の重臣・長尾景春に味方した相模・小沢城の金子氏などがいるため、三田のあたりも所領だったのかも?知れない。
1477年頃、太田道灌によって相模・小沢城は落城し、のち長尾景春の拠点・小机城も陥落した。

交通アクセス

聖眼寺への行き方であるが県道からの入口は傾斜があるがクルマで進入できる。
聖眼寺の直前に十分な駐車スペースあり。
トイレなどはない。
駐車場の場所は当方のオリジナル地図にてポイントしている。

厚木のあたりは、平安時代末期から戦国時代までかなり深い歴史が多くあったと考える。
そのわりには、あまり昔の伝承調査や発掘などが行われていないようでもったいないと感じる。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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