埼玉県

越生氏館(越生館)のちょこっと解説~越生有行の本拠地

越生氏館(越生館)

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越生氏館(越生館)とは

越生氏館(越生館)は、埼玉県入間郡越生町越生にある丘城で、現在の越生神社がある場所だと言う。
この「越生館」だが、越生駅の近くに割烹旅館の越生館さんもあるので、これまたややっこしいので「越生氏館」としたほうが適切かも知れないので修正した。

越生(おごせ)氏の祖としては、入西資行の3男(または4男?)である入西有行が、越生に居館を構えて越生氏を称したとされる。
平安朝末期から鎌倉初期、武蔵七党のひとつに児玉党があるが、その児玉家行の弟が入西資行で、埼玉県坂戸市の入西資行館が本拠だったようだ。
鎌倉時代初期に源頼朝に従い、1185年の奥州合戦などで武功があったようで、越生一帯の所領を得たようだ。
弟にはに真下基行(ましも もとゆき)がいるが、拠点は児玉町上真下付近か?

越生氏館(越生館)

入西資行の長男・入西行成は浅羽氏、次男・入西遠弘は小代氏の祖となった。
また越生館に入った越生有行の子には、越生有弘、越生有頼、越生有平の3兄弟がいて、越生有弘は越生氏を継ぎ、越生四郎有平の子・越生有年は鳴瀬氏(成瀬氏)とにり、越生有光は黒岩氏を、越生有基は岡崎氏へと分家したようだ。

ここが越生館であると先人の印を頼りに、越生神社にやってきたが、うーん?
越生神社の場所が城跡として機能していたのは間違いないように感じるが、直感的に砦?と言うような詰め城であり、平時の舘跡ではないような印象を受ける。
すなわち、ちょっと高台にありすぎるのだ。
埼玉県の場合、中山家範館のように背後の山を城跡とせずに、意外と麓の平坦部を城跡としているケースがあり、さすが埼玉だと納得することがあるのだが、個人的に越生館では同意できそうもない。
もっと低いところに、屋敷があったようにも感じる。
となると一族の舘が点在していた可能性もあるだろう。


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そして、平安時代から南北朝時代に入ったころには、もっと防御性が高い城が求められるため、もっと標高が高いところに高取山城を築いたのであろう。
<注釈> 麓にある越生絹会館の近くも越生氏館跡とされるようなので、越生神社の場所は見張り台・砦、もしくは別邸があったとも考えらるが、それも鎌倉時代までであろう。

越生氏館(越生館)

南北朝時代に入ると、裏山で標高170mの高取山に武蔵・高取城を築いたと考えられる。
その高取城の入口の防御として出丸のような感じで越生神社の場所が使われた可能性もあるだろう。

越生神社

越生氏は室町時代1480年代くらいまで見られるが、その後は歴史に現れなくなる。
太田道灌にやられてしまったのでろうか?

交通アクセス

越生氏館も高取城も「越生神社」が目印となる。
越生駅から約550m、徒歩10分くらいで越生神社に到着できる。
越生神社の境内に駐車スペースがあり利用できるので場所を当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
道路のずっと奥の方にあると言う感じ。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。

未確認だが越生神社に公衆トレイもあり。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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