山梨県

本栖城(本栖城山)の解説~渡辺守(渡辺囚獄佑守)

本栖城

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本栖城とは

本栖城(もとす-じょう)は、山梨県南都留郡富士河口湖町本栖の山城で標高1056m、比高150mほど。
本栖の城山とも呼ばれる。

山すその尾根上の細長い平坦地を細長く利用しているようで、狼煙台など遺構などは比較的良好な模様。

本栖城

最初の築城は源吉春だとするが時代やどのような人物なのかは全く不明。
戦国時代に入ると1553年の武田家朱印状に「本栖の番を勤める」と見受けられ、中道街道(中道往還)を抑え駿河に進出する要衝と考えられていたようだ。

渡辺守(渡辺囚獄佑守)

1582年、織田信忠の軍勢が伊那に侵攻し、信濃・高遠城を落として武田家が滅亡すると、本栖を領していた旧武田の家臣・渡辺守(渡辺囚獄佑守)(ひとやのすけまもる)が徳川家康に従ったとある。

渡辺守(渡辺囚獄佑守)は、17騎の九一色衆(くいっしきしゅう)と呼ばれた、甲斐国の辺境武士団の頭領的な武将であった。
妻は秋山虎康の娘。
富士御師でもあったとされるため生計の糧であった可能性がある。

<注釈> 御師(おんし)とは社寺へ参詣者などの宿泊などの世話をした神職。

この渡辺氏は、祖父・渡辺知(さとる)が武田信虎に仕えたのが始まりだったようで50石であった。

天正壬午の乱の際には、西湖付近の土豪らが小田原城の北条氏と本栖に進軍した。
このとき、渡辺囚獄佑は徳川家の援軍・安部信勝と一緒に、丸尾(青木ヶ原丸尾)にて撃退に成功している。

以後、江戸時代中期頃まで、渡辺氏が630石にて本栖関所(本栖口留番所)守備の任務を受け継いだ。
       
麓と言うか、本栖の交差点がある集落北側に、渡辺氏屋敷跡があるので平時は集落にいて、本栖城山は詰の城として使用していたのであろう。
屋敷跡の裏には渡辺囚獄佑の墓もあるらしい。

本栖城

また、付近の青木ヶ原樹海の中には「石塁」もあるようで防御態勢はなかなかのようなものらしい。

交通アクセス

本栖白に登城する場合には、国道139号の上九一色中学校バス停付近から西へと入り、体育館付近に数台程度の駐車スペースがあるらしい。
ただし、無難に本栖湖の公共駐車場に止めて登城される方も多いようだ。
もちろん冬に登るのが良いだろうから、今回は夏と言う事で断念している。

本栖城がある場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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