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水巻城とは
水巻城は、静岡県浜松市天竜区佐久間町中部にある丘城(平山城)で天竜川が蛇行する平沢台地の先端に築かれていたようだ。
最初の築城は不明だが、戦国時代に高根城の奥山定之が、支城として水巻城を築いたとされる。
そして、2男・奥山定茂(奥山美濃守定茂)が水巻城に入ったようだ。(遠江国風土伝記)
奥山氏はもともと井伊氏の一族で、遠江国引佐郡奥山郷にて井伊氏などと一緒に今川義元に従っていた。
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しかし、桶狭間の戦いで今川義元が討死し、1563年、犬居城の天野景泰・天野元景の父子が今川氏から離反すると、大洞若子城である奥平定吉の子?とされる惣領の奥山吉兼も同調。
一方で遠江・小川城の奥山定友・奥山友久はまだ今川勢に味方するなど、奥山氏は一族で対立する構図となった。
ただし、記録が錯綜していて判然とし
神妻神社棟札(1568年)の写しに奥山□□守茂定との記載があると言う。
やがて、武田信玄の手が伸びて来ると、水巻城の奥山定茂は武田家に従うようになり、1569年、兄・奥山貞益が継いでいた高根城を攻撃。
縁戚関係にあった南信濃・和田城の遠山景直(遠山土佐守景直)から援軍も得たらしいので、挟み撃ちしたようだ。
兄・奥山貞益(奥山民部少輔貞益)の留守を狙って、長尾(水窪町長尾)に隠居していた父・奥山能登守定之を討ち、高根城に火を放ったとある。
また、奥山定茂は高根城のすぐ南にある弟・奥平定吉の大洞若子城、奥平定友と子の奥山友久の遠江・小川城(佐久間町大井)も攻めた。
奥山定友と奥山友久の親子は、尾根伝いに犬居城の天野氏を頼って落ちたと言う。
1575年、設楽ヶ原の戦い(長篠の戦い)で、奥山定茂(奥山美濃守定茂)は武田勢として参陣。
しかし、武田勝頼が大敗すると1576年1月、徳川勢によって水巻城も陥落し、奥山定茂は高根城に逃れたあと、子供らと青崩峠を抜けて信濃に落ち延びたとされる。
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この水巻城の戦いにて、徳川勢の大将を任されたのは片桐家正(片桐権右兵衛門家正)となる。
片桐氏はもともと信濃源氏の名族で、片桐家正は片桐且元の弟?ともされ信州・伊那衆だったが、武田信玄に滅ぼされて浪人だったようだ。
そのため、片桐家正は徳川家の客将となっていたと考えられる。
水巻城攻めでは徳川勢を船に乗せて天竜川を下ったと言う。
これに対し奥山定茂は、大量の竹の皮を城の周囲(急斜面など)に巻いて、攻め手の足を滑らせようと計略した。
しかし、片桐家正は竹に火を放ったため、逆に水巻城は炎に包まれたと言う。
水巻城付近の領地は、奥山惣十郎なる武将に3分の1が与えられ、残りの3分の2は、片桐家正(片桐権右兵衛門家正)が知行したようだ。
水巻城の遺構は見つかっていないとされるが、天竜川が蛇行する丘の上にあったことはほぼ間違いないだろう。
なお、江戸時代の1628年に移転してきた宥泉寺は、古城跡に建てたともされ、居館跡ではないか?と言う指摘もあるようだ。
と言う事で、目立った遺構はなく、空き地を撮影した。
ちなみに、遠江・高根城にいた奥山定吉の子、奥山吉兼は武田滅亡後は徳川家の家臣となり、その子孫は井伊直政に仕えている。
そのため、井伊谷の龍潭寺にも奥山家の墓がある。
交通アクセス
中部天竜駅から歩くと約1.7km、坂道を登ること歩いて30分くらいか。
水巻城への行き方ですが、場所などは、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)
付近にコンビニや食堂などはないので計画的にどうぞ。
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