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須沢城の解説【関東執事・高師冬とは】須沢城の戦い

須沢城

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須沢城

須沢城(すさわじょう)は、山梨県南アルプス市大嵐にある山城で、別名は栖沢城。
標高は700m、比高200m、本丸は広大な平場(大嵐集落)になっていたようで、現在、山の果樹園さんなどがある。

須沢城

最初の築城としては、甲斐国志によると鎌倉時代初期には塩屋三郎や御勅使十郎の城としている。
1203年、塩谷三郎は和田合戦にて討死。

廃寺となった善応寺の名残になる観音堂の脇には、城主と伝わる宝篋印塔があるが誰かは不詳。

高師冬

南北朝時代には高師冬が須沢城で籠城した。

高師冬(こうのもろふゆ)は高師行(もろゆき)の子として生まれた。
足利尊氏の側近として活躍した高師直の従兄弟にあたる。
妻は高師泰の娘・明阿(みょうあ)。


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1338年、足利尊氏に仕える高師冬は関東の平定に乗り出し、1339年、上杉憲顕のあとを受けて関東執事となった。
南朝に味方する北畠親房や、常陸・小田城の小田治久、伊達行朝らと戦い、1343年に、関城、大宝城を攻略して関東平定を成し遂げている。
この戦功によって、高師冬は武蔵守護・伊賀守護となり、幼い足利義詮を補佐して関東の実権を握っている。
1344年、従兄弟の高重茂に関東執事を譲ると、交代、翌興国6年/貞和元年(1345年)の天龍寺供養においても尽力した。

1349年、足利義詮は京に呼び戻され、関東公方には幼い足利基氏が就任。
補佐する形で、上杉憲顕と高師冬がふたたび関東執事となって、1350年1月鎌倉に下向した。
しかし、京都で高師直と足利直義が対立すると、足利直義派である上杉憲顕が挙兵し高師冬と対立した。(観応の擾乱)


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鎌倉で旗印にしていた足利基氏を足利直義の軍勢に奪われた高師冬は、1350年末に甲斐・須沢城へ逃れて城主の逸見孫六入道とともに籠城した。
室町初期には、甲斐・武田氏の一族である逸見氏が領有していたと考えてよいでしょう。

しかし、すぐに須沢城は諏訪直頼・市河泰房と上杉能憲の軍勢に包囲されてしまった。
なお、諏訪勢には高師冬が烏帽子親を務めた諏訪長久(諏訪五郎長久)と言う若武者がいたようで、この諏訪長久は籠城軍に加わったとされる。
攻撃側は西側の山へ回り込んで山上から攻め降りたようで、3日3晩の激戦の末、1351年1月17日、高師冬ら64人は自刃したと伝わる。


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約1ヶ月後には、おじ高師直、高師泰、高師世ら高一族8名も摂津国武庫川で殺害され、高師冬の妻は出家して明阿と称した。
明阿は室町幕府に掛け合い、菩提を弔うため所領をえて総持寺(愛知県岡崎市)建立し尼寺としている。

交通アクセス

須沢城への行き方ですが、JR中央本線の甲府駅からバスで、塩の前入口バス停下車して、登る事徒歩20分。
クルマの場合、平場のところまで広めの道路があり、西側からクルマで上がっていけるようですが、ここは南アルプス・夜叉神峠の麓である芦安も近く雪雲が届いていた。
甘利氏館から来たが氷点下であり雪がちらついてきたため、安全を重視して引き返している。
そのため、石積出二番堤の河原より遠景撮影するに留め、このあと甲斐・金丸氏館に向かった。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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