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源頼朝生誕地
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝(みなもとの-よりとも)は、久安3年(1147年)に源義朝(みなもとの-よしとも)を父とし、熱田神宮大宮司である藤原季範(ふじわらの-すえのり)の娘である由良御前(ゆらごぜん)を母として、現在の愛知県名古屋市熱田区にあった藤原季範の別邸に産まれ、幼名を鬼武者(鬼武丸)と名付けられました。
生誕地である藤原季範の別邸は、熱田神宮の西側に隣接する位置にあり、現在は誓願寺となっており、その山門前には『右大将頼朝公誕生當地』の碑と看板が立てられています。
誓願寺
愛知県名古屋市熱田区白鳥2丁目10
もともと熱田神宮の大宮司は尾張国造の子孫である尾張氏が務めており、皇統譜の古い時期から天皇家と結び付き、多くの后妃を出してきた氏族です。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に赴く際に、尾張国造乎止与命(おわりのくにのみやつこ-おとよのみこと)の子である建稲種命(たけいなだねのみこと)が副将として参陣し、多くの軍功を挙げたとされます。
また、建稲種命の妹である宮簀媛(みやずひめ)は日本武尊の妃となり、一夜を共にした時に日本武尊が持っていた草薙剣が神々しく光り輝いたため、日本武尊は神殿を建てて草薙剣を奉納し、宮簀媛の生家である尾張国造が宮司を務める事を命じたとされ、その時に建てた神社が熱田神宮であると『熱田大神宮縁起』には記されています。
矢矧川沿いある矢作神社境内に立つ日本武尊の陶像
岡崎市矢作町宝珠庵1
源頼朝産湯の井戸
平安時代後期になると、大宮司の職は尾張員職の外孫にあたる藤原季範に譲られます。
余談にはなりますが、藤原季範の孫にあたる藤原憲朝(ふじわらの-のりとも)は三河国設楽郡千秋に領地を得て名字を千秋氏と改め、これ以降、千秋氏は代々熱田神宮の大宮司を務め尾張氏は権宮司を務める事となりました。
千秋氏の子孫は戦国時代に入ると織田信秀(おだ-のぶひで)、織田信長(おだ-のぶなが)父子配下の武将として稲葉山城攻めや桶狭間の戦いに従軍した後は、大宮司の職に専念したとされます。
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藤原季範の別邸で産まれた源頼朝は、東に2km程の所にある亀井の清水を産湯としたと言われています。
この井戸水は名水として名高く『府城の南一里三十町。本井戸田なる村あり。井水すべて清らかなり。名ある清水七ヶ所ばかりあれど、亀井という清水こそ、名高くうるはし』(尾張志)と記載があります。
亀井水は名古屋市瑞穂区の龍泉寺山門前に現在も残っており、源義経(みなもとの-よしつね)が東国で挙兵した源頼朝の元へ向かう際に参拝した逸話が残されている他、治承3年(1179年)に平清盛(たいらの-きよもり)が起こした治承三年の政変によって太政大臣を解任された藤原師長(ふじわらの-もろなが)が流罪に処せられた際に龍泉寺で出家したと伝わっています。
当時の慣習では元服するまでは母親の元で育てられているため、源頼朝も幼少期は熱田神宮近辺で生活していたようです。
保元元年(1158年)皇后宮権少進に任官された事を皮切りに、宮廷で順調に出世していきますが、平治元年(1159年)に母の由良御前が死去し、同年には父の源義朝が平清盛と対立した後、戦いに敗れて愛知県の野間大坊で殺害されます。
旗掛けの松
源頼朝も処刑される所を助命され、伊豆の蛭ケ小島に流刑となりますが、源義経らの活躍で平家を打倒した後に鎌倉幕府を開き、建久元年(1190年)に上洛するまでは東国で過ごす事になりました。
上洛途中では父の源義朝の墓がある野間などにも立ち寄っていますが、産湯の亀井の水から南に1.5km程の所にある池の淵にある松の木に旗を掛けてで休息を取ったと言われており、現在も呼続公園の中に老木がそびえ立ち歴史を刻んでいます。
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(寄稿)だい
・源頼朝とは~何をした人?したこと?どんな性格?最大の功績など解説 (鎌倉殿の13人)
・鎌倉城とは「大蔵幕府」(大倉御所)鎌倉幕府が築かれた鎌倉の城域
・三河・川尻城の解説 ~いざ奥平家を再興へ!~
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