埼玉県

源範頼館・御所陣屋の解説~吉見御所と源範頼(蒲冠者)を検証してみた

源範頼館

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源範頼

源範頼館(みなもと の のりより-やかた)は、 埼玉県比企郡吉見町御所にある平城です。 

城名 : 源範頼館・吉見御所・伝範頼館
場所 : 武蔵国
形態 : 平城(館・屋敷)
天守 : なし
築城年 : 鎌倉時代?
築城者 : 源範頼?
遺構:水堀・空堀
駐車場 : あり

源範頼館

源範頼は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟と言うと、わかりやすいでしょうか?
兄弟には、源義平・源朝長・源頼朝・源義円・源希義・阿野全成・円也・源義経がいます。
源範頼(蒲冠者、蒲殿)は、遠江国(浜松市)にて生まれ、幼いころから、育ったとされます。
1159年、平治の乱にて父・源義朝が敗れて殺害され、兄・源頼朝は伊豆に流罪となりました。


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源頼朝の乳母・比企尼は、源範頼(蒲冠者、蒲殿)を、武蔵国の安楽寺に入れて、稚児僧姿にし、潜伏されたとあります。

父・源義朝が殺害されると、子供らは、流罪か出家していますので、このタイミングで、蒲冠者(蒲殿)は、比企尼が保護し、岩殿山・安楽寺(吉見観音)にて暮すようになったのかも知れません。
ただし、吉見観音での伝承では、安楽寺の稚児僧だったとありますので、もっと、幼いころから安楽寺(吉見観音)にいた可能性もあるでしょう。
とはいえ、源範頼の幼い頃の動向に関しては、よくわかりません。
下記は、安楽寺(吉見観音)。

安楽寺(吉見観音)

1161年、源範頼は、京にて、後白河法皇の近臣である藤原範季(ふじわら の のりすえ)の養子になったようです。
そして「範」の字を与えられたものと推測できます。
源範頼の生年は1150年頃と考えられますので、11歳前後の頃と推測できます。


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ここで大きな疑問となるのは、なぜ、京の公卿・藤原範季が、源範頼を、わざわざ養育することになったのか?です。
源頼朝や源義経など、生き延びた兄弟は多いですが、いずれも、流罪で流人となっているか、出家して僧侶になっています。
もちろん、平清盛の探索の手が、源範頼には及んでいなかった?とも考えられますが、比企尼と藤原範季は縁者(親戚など)である可能性もあるでしょう。
そして、1180年、兄・源頼朝が挙兵した際に、源範頼は、30歳前後になっていたものと考えられます。
当初は、出身の遠江を中心に、甲斐源氏武田信義安田義定らと行動を共にしていたようです。
その後、源範頼は、平家討伐時に、源義経と共に総大将となって、活躍しました。
北条義時足利義兼千葉常胤三浦義澄八田知家・葛西清重・小山朝光・比企能員和田義盛工藤祐経天野遠景など、そうそうたるメンバーを指揮しています。

吉見・源範頼館

源範頼の妻は、安達盛長の娘・亀御前になります。
その頃、吉見荘を領地としていた可能性があります。
それが、源範頼館(源範頼屋敷)跡になるのかも知れません。
現在の息障院がある場所に、蒲殿の館があったとされ、地名は「吉見御所」と呼ばれている次第です。

息障院

のちの室町時代に、吉見観音の場所から現在地に移ったと言う息障院(そくしょういん)の周りは、水堀と空堀になっています。
そもそも、吉見観音がある安楽寺の本坊が息障院だったようで、移転・再興されました。
屋敷跡としては、鎌倉時代の典型的な館跡と言えるでしょう。

源範頼館の堀

昔はもっと深かったと思いますが、この規模の堀の場合、防御能力と言うよりは、大雨が降った際などに、敷地内が水没するのを軽減する、水はけのようなものとなります。
現代と違って、下水道なんて、ない時代ですのでね。
堀の脇に、土塁があれば、防御も兼ねているのですが、見た限りでは、わかりませんでした。

源範頼館

時期が不明ですが、源範頼は、安楽寺(吉見観音)に所領の半分を寄進して、三重塔・大講堂を建立したともされます。

1193年、富士の裾野で巻狩りの際に、曾我兄弟の仇討ちが起こりました。
この時、源範頼は鎌倉にいましたが、第1報として「源頼朝が討ち取られた」と鎌倉に伝わると、源範頼は、北条政子に下記のように話したと言います。
「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。
そのため、鎌倉に戻った源頼朝から、謀反の疑いを掛けられました。
更には、源範頼の郎党・当麻太郎が、源頼朝の寝所の下に潜むこむ事件などもあり、1193年8月17日、源範頼は伊豆・修禅寺に幽閉されました。
下記写真は、伊豆・修禅寺。

伊豆・修禅寺

その後、源範頼の動向は不明となっていますが、保暦間記・北條九代記などでは、誅殺されたとあります。
一説には、梶原景時が殺害したともされます。
下記は、伊豆・修善寺にある、源範頼の墓です。

源範頼の墓

確かに、修善寺に、源範頼の立派な墓があるのですが、吾妻鏡には、源範頼の最後や死んだことに関して、記載されていません。
そのため、源範頼のその後に関しては、下記のような伝承があります。

・越前に落ち延びて余生を過ごした
・吉見観音に隠れ住んだ
・伊豆から浦郷鉈切(横須賀市)に逃れたが、太寧寺で自刃した(横浜市)
・伊予国の河野氏を頼って逃走した
・石戸宿(北本市)にて余生を過ごした


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尊卑分脈・吉見系図などによると、比丘尼の嘆願にて、子の範圓(範円・範国)・源昭は助命されて仏門に入ったとします。
そして、源範円(はんえん)、吉見為頼(ためより)、吉見義春(よしはる)、吉見義世(よしよ)と、吉見氏を称し、吉見御所に居住しました。
余談ですが、館(屋敷)跡の呼び方(名称)に関しては、地方によって、つけ方が異なるケース、特徴があります。
埼玉県の場合、その人物の名前をつけた名称が多いように感じますが、例えは甲府の躑躅ヶ崎館も、作ったのは武田信虎ですが、武田氏館とは呼んでも、武田信虎館とは言いません。
源範頼館の場合、吉見氏として使われた時期が長かったと考えられますので、一般的には、吉見氏館・吉見館(吉見御所)とするのが、妥当になるかと存じます。

新編武蔵風土記稿では「源範頼以来子孫相続いて五代住す。故に里人吉見の御所と称せし」とありますので、源範頼が失脚したあと、吉見御所・源範頼館(源範頼屋敷)が、設けられたとも考えられます。
源範頼が幼い頃に吉見にしたとしたら、吉見観音に住んでいた訳ですので、屋敷は不要とも言えます。
失脚後に、吉見に来ていた場合には、屋敷が建てれたかも知れませんが、その場合、妻の実家・安達盛長の領地の一部とも考えられる、武蔵・石戸館に住んだ可能性もあります。
下記は、武蔵・石戸館跡になります。

石戸館

石戸宿には、伊豆からやっとの思いで逃れてきた蒲殿が、杖がわりにしていた桜の枝から「石戸蒲ザクラ」(日本五大桜のひとつ、天然記念物)になったと伝わります。

石戸蒲ザクラ

源範頼の妻・亀御前の墓は、吉見ではなく、石戸館の近くにあります。

吉見尊頼は、渋川直頼の養子となり、渋川義宗と名乗った際に、吉見氏の嫡流は、謀反の疑いで、執権・北条氏に滅ぼされました。
南北朝時代の1341年には、常陸・小田城にいた高師冬に、武蔵国住人・吉見彦次郎などが降参したとあります。
その後、武蔵・吉見には、三河国の出稼衆・吉見氏が移ったともされます。

吉見氏の一族としては、南北朝時代に能登守護を務めた吉見頼顕、吉見頼隆、吉見氏頼などや、戦国時代に津和野城主となっている吉見広頼などか有名です。


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もうひとつ、吉見には気になる名称の史跡があります。
下記の吉見・御所陣屋です。

御所陣屋(吉見町御所)

吉見・御所陣屋は、源範頼館跡とされる、息障院から北の方角、歩いて650m、徒歩10分ほどの場所にあります。

御所陣屋

現在、横見神社の境内になっていますが、その横見神社の周りは、立派な水堀で区切られています。

御所陣屋

御所陣屋は、江戸時代に、陣屋として使われたことから、そのような名称になっているようです。
武田旧臣である今井忠昌の子で、中川昌勝の養子になったとされる中川八郎左衛門が、横見郡の代官でしたが、年貢調達に失敗し、1682年に切腹しました。
その中川氏の陣屋(代官所)があったともされます。

御所陣屋

しかし、吉見町史上巻にて、横見神社も、源範頼館の推定地のひとつと記載されています。
吉見氏も、南北朝時代まで、続いていますので、屋敷が古くなると、新しく近くの場所に、建て直したと、想像してしまいます。
ただし、源範頼の前の時代、平安時代中期頃には、吉見頼茂、吉見頼経(吉見朝信)が吉見郡司であったともされますので、その古い吉見氏の屋敷跡なのかな?と言う印象を受けました。


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吉見・御所陣屋の場合、堀は、なかなか立派なのですが、その堀の内(内側)は、ちょっと、狭いんですよね。
領主クラスの屋敷を置く場合、食事や身の回りの支度などをする、侍女や下人も合わせると、数十人になりますが、この敷地では、狭すぎると感じます。
勝手な想像をしますと、もともと、吉見氏の時代などに、誰かの隠居所や草庵として、使ったようにも感じてしまいます。

交通アクセス

源範頼館と、御所陣屋がある場所は、当方のオリジナル地図にて、駐車場の場所も、ポイントもしています。
地図の中にある検索窓から、検索してみて頂けますと幸いです。
スマホで表示すると、その場所を選択して、目的地指定し、カーナビ代わりにもお使い頂けます。
歩くナビにする設定もあります。

電車・バスの場合、東武東上線・東松山駅からタクシーで約25分です。
バスの場合、免許センター行きバス(約30分間隔)に乗車して、所要10分、久保田バス停下車、徒歩25分になります。
鴻巣駅からも東松山駅行きのバスがあるようです。


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もちろん、吉見観音、クルマの場合には、武蔵・松山城などとセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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