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足立遠元館(足立氏館)
足立遠元館は、埼玉県桶川市桶川市末広にある平城(屋敷跡)で、別名は、足立遠元屋敷、足立館、足立氏館となります。
最初の築城は平安時代末期で「植田谷」に入った、足立遠元(あだち とおもと)が屋敷を構えたとされます。
足立遠元は、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らと、源頼朝に味方して鎌倉幕府創設に貢献した武将で「十三人の合議制」のひとりにもなりました。
桶川市総合福祉センターの建物南側に「伝足立右馬允遠元館跡」の石碑があります。
足立遠元の屋敷はどこにあったのか?
この場所には、通称「一本杉」と呼ばれた老木があったそうで、その根元に「神明宮建久三歳城主足立右馬允建之 文化六巳歳再建 府川甚右衛門尉義重」と刻まれた石祠が存在していたとされます。
実際問題、足立遠元の館があったとされる場所は、さいたま市にもあるなど、特定できておらず、諏訪雷電神社も館跡の可能性があるともされます。
このように、屋敷跡の候補地がいくつかあるケースの場合、小生は「引っ越し」をしたり「一族の者の館」が近くにあったので、跡地としての情報も混在しているものと考えています。
しかし、中山道からも少し離れていることや、井戸が存在していたのか?が疑問などもあり、このような地勢から、ここは、足立氏が建てた寺?があったように感じます。
とはいえ、足立遠元の屋敷跡を示す場所は、ここしかないと言うのが実情と言え、石碑も無いよりは断然あったほうが良いです。
ただし、石碑がある場所も、土塁や堀といった遺構は全くなく、道路も狭いです。
鎌倉時代の1285年、霜月騒動にて、足立直元は、安達泰盛に味方しては牧師、本領の足立郡を失い没落しました。
足立遠元の孫・足立遠政は、1209年に、約70名の家来を連れて丹波・山垣城に移り住んでおり、戦国時代まで丹波・足立氏が存続しました。
しかし、戦国時代の1579年、羽柴秀長と明智光秀の攻撃により陥落し、没落しています。
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交通アクセス
足立遠元館(足立氏館)への交通アクセス・行き方ですが、JR桶川駅の東口より、朝日バス「加納公民館経由 JR桶川駅東口行」(加納循環)に乗車して、総合福祉センターバス停下車の徒歩約3分です。
駐車場は広いのですが、総合福祉センターや桶川東公民館が閉庁している際には、駐車場も閉じられていますので、止められません。
住宅街で、アプローチの道路も、狭いうえに、歩行者・自転車も意外とおられますので、運転にはご注意を。
・足立遠元の解説【鎌倉殿の13人】文武両道の鎌倉武士
・丹波・山垣城 武蔵国の足立から移り住んだ名門の本拠地
・武蔵・三ツ木城の解説 足立遠村(川田谷遠村)の屋敷跡か?
・武蔵・加納城 桶川に残る堀跡と土塁
初めてお便りします。私は、兵庫県丹波市青垣町山垣の足立遠元の孫、足立遠政の山垣城の麓のものです。
鎌倉殿の13人で遠元が出るということで、関心をもっています。青垣町(訳6千人)では人口の4割が足立で、ちなんで地域おこしをしたいと考えています。桶川市の方では何かありますか。情報を共有したいのですが連絡いただけますか。
宜しくお願いします。
ご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
情報共有はぜんぜん問題ございませんのでご自由にお願いできますと幸いです。
町おこしのご成功、お祈り申し上げます。