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周防・鞍掛山城とは
周防・鞍掛山城(くらかけやまじょう)は、山口県岩国市玖珂町鞍掛にある山城で、鞍掛城・鞍懸城とも、倉掛山城とも書きます。
標高は240m、比高は160mほどで、平時の館じたいは東の谷津原にあったとされます。
なお、播磨・置塩城の近くにも、播磨・鞍掛山城がありますので、混同しないように注意が必要です。
最初の築城は不明ですが、戦国時代には杉隆泰(杉治部大夫隆泰)の本拠だったと伝わります。
鞍掛・杉氏は、応永6年(1399年)に、室町幕府第3代将軍・足利義満と、大内義弘の跡を継いだ大内盛見から、周防国玖珂郡を拝領した、杉一族の模様です。
杉隆泰(すぎ-たかやす)は、大内義隆の家臣である杉貞泰の子として、1525年に生まれました。
杉家は、代々、奉行を務める家柄のため、杉隆泰も、山口・大内氏館に出仕しており、領地にはほとんどいなかったようです。
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1550年、杉隆泰は従五位下に叙され、治部大夫と称するようになりました。
1555年、厳島の戦いにて、陶晴賢を撃破した毛利元就は、そのまま周防長門への侵攻を開始します。
この時、大内義長が防衛のため強化したのが、下記の諸城になります。
蓮華山城 — 椙杜隆康
鞍掛山城 — 杉宗珊・杉隆泰
須々万沼城 — 江良賢宣・山崎興盛
富田若山城 — 陶長房
右田ヶ岳城 — 右田隆量
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毛利元就は、蓮華山城の椙杜隆康や、周防・瀬田城の小方元康らを調略して寝返らせます。
この蓮華山城は、鞍掛山城のすぐ北側の高いところにあったことから、杉隆泰もやむなく降伏しました。
ところが、杉隆泰と椙杜隆康は、かねてから仲が悪かったらしく、椙杜隆康は、杉隆泰の降伏は「ウソ」だと毛利家に進言したとされます。
一説によると、毛利家に降伏したあとも、毛利元就の動向を、密かに大内義長へ伝えていたともされます。
そのため、毛利勢は、鞍掛山城を総攻撃することになり、鞍掛城の戦い(鞍掛合戦)となりました。
毛利勢・椙杜隆康ら7000に対して、杉勢は2600で迎え撃ちます。
杉氏は、鞍掛城の本丸に1000、二の丸に800、鞍掛山東部の谷津ケ原に400、市頭に400を布陣させたと伝わります。
しかし、早朝に毛利勢が搦め手より奇襲をかけ、1555年10月27日、杉宗珊(杉貞泰)と杉隆泰は、小方元康によって討ち取られました。
小方元康によって片腕を切られ、小方氏の家来が止めを刺したとされます。
杉隆泰は、享年31。
墓所は、祥雲寺にあります。
武士800を含む城兵1300が討死した激戦だったようで、麓の鞍掛合戦古戦場跡には「鞍掛合戦千人塚」が残されています。
約1年5ヶ月後の1557年4月、長門・勝山城(且山城)に籠城した大内義長と内藤隆世でしたが、最後は降伏のあと、自刃させられ、大内氏は滅亡しました。
杉隆泰の子・杉専千代丸は、山口の杉屋敷から、大分の大友義鎮を頼って逃れ、杉鎮頼と称しましたが、1578年、耳川の戦いで討死しています。(もちろん諸説あります)
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杉氏の遺領は、椙杜隆康(すぎのもり たかやす)に与えられましたが、椙杜隆康は子がいなかったため、のち、毛利元就の5男・毛利元秋を養子に迎えています。
毎年11月下旬の日曜日には、玖珂こどもの館にて、戦国時代の武将をしのんだ鞍掛武者行軍、合戦出陣絵巻など「鞍掛城まつり」が行われるようです。
交通アクセス
周防・鞍掛山城への交通アクセス・行き方ですが、JR岩徳線の玖珂駅(くが-えき)から、東麓の登城口まで約1km、徒歩13分くらいです。
なお、東の麓からも歩きの登山道が整備されており、山頂尾根を北に進むと二の丸・三の丸があり「古戦場鞍掛城址」の石碑もあるようですが、今回は時間がなく登城は断念しました。
この東側から登る際には、駐車場かないので、南にある「玖珂グラウンド」の無料駐車場を利用して欲しいとなっています。
その他、西の麓からは、狭い登山道路が伸びており、山頂近くの終点(広場)に駐車可能なようです。
山頂の展望台(本丸)には、その広場からが最寄りです。
・蓮華山城の解説 椙杜隆康・椙杜元縁の本拠地
・大内義長の解説 傀儡と言われつつも潔く散った悲運の将
・周防・瀬田城 小方元康の居城
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・天野氏館の解説 天野元嘉の隠居地
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