権限山城とは
武蔵・権限山城 (ごんげんやまじょう) は、神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷にある平山城で、別名は神奈河城とも書きます。
最初の築城としては、室町時代に扇谷上杉家に従っていた、上田蔵人とされます。
この上田政盛(上田蔵人政盛)は、相模守護代と言う実力者とされます。(なぜ、武蔵国にあたる横浜市を知行したのかは、よくわかりませんが・・。)
相模国守護代・上田正忠(上田政忠)の子が、上田政盛(うえだ まさもり)と推定されているようです。
相模・上田氏の出自は、武蔵七党の西党の庶流となる上田氏の嫡流とされます。
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長享元年(1487年)からの長享の乱で上田氏は活躍し、山内上杉家領だった神奈川湊を領地に加えたようです。
ただし、1478年に太田道灌の攻撃を受けた小机城の矢野兵庫助の所領は、権現山がある神奈川湊であったともされます。
永正2年(1505年)に扇谷上杉氏が、山内上杉家に降伏したため、不満を抱いた上田政盛は、永正7年(1510年)6月に、小田原城の伊勢宗瑞の調略に応じて、武蔵・権現山城に立てこもりました。
そのため、上杉憲房(山内上杉氏)の援軍を得た、上杉朝良(扇谷上杉氏)は、2万の大軍にて、権現山城を攻撃しました。 (権現山城の戦い)
間宮林蔵のご先祖様である、笹下城の間宮氏も、駆けつけて、一緒に籠城していた模様です。
この時、後詰めとして駆けつけた北条勢は「本覚寺の地蔵堂」を根城(本城)として籠城したとありますが、激戦のすえ、上杉氏が勝利しました。
その本覚寺は、尾根伝いだったようで、その後、北条早雲の支配下となると、武蔵・青木城として、整備されており、権限山城は青木城の一角となった模様です。
上田政盛(上田蔵人政盛)に関しては、上田正忠ら一族と共に、伊勢宗瑞の許に逃れたともあり、明確ではありません。
いずれにせよ、相模・上田氏は没落し、庶流とされる、武蔵・松山城の上田朝直らが、扇谷上杉家の重臣として活躍するようになりました。
江戸時代に入ると、権現山と、横浜の間には、東海道の神奈川宿が整備されています。
幕末に黒船が来航すると、神奈川台場建設のため、権限山城後は、山頂が削られました。
また、明治時代には、日本初の鉄道の建設により開削され、地形は原型を留めておらず、遺構はありませんが、現在、幸ヶ谷公園となっています。
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交通アクセス
武蔵・権現山城への交通アクセス・行き方ですが、最寄り駅は京急本線の神奈川駅(各駅停車)から、徒歩5分くらいの距離です。
横浜駅からでも徒歩圏内です。
駐車場はありませんので、横浜駅周辺のコインパーキングに止めてから、徒歩で向かう事をお勧め申し上げます。
青木城とセットでどうぞ。
・武蔵・青木城の解説 多米元忠
・北条早雲の解説【詳細版】戦国時代の幕開け~伊勢宗瑞の生涯
・笹下城 間宮氏が城主を務めた横浜の拠点のひとつ
・訪問しておきたい神奈川県の城郭・寺院・古戦場など一覧リスト
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