古国府城(ふるこくふじょう)は、富山県高岡市伏木古国府にある丘城で、別名は如意城(にょいじょう)とも言います。
北前船が伏木港を利用した海上交通もあり、古くから栄えていたようで、越中国の国庁や国分寺、国守館などが近くにあったとされます。
ただし、瓦の原料となる粘土が採れる場所でもあるため、その遺構は失われており、古国府城に関しても推定地と言う事になります。
最初の築城は恐らく古い時代からであったと推測されます。
しかし、古国府城が文献などに出てくるのは、戦国時代からでして、放生津城から越中・守山城に籠城した神保氏張が、拡張工事したとされます。
古国府城跡と考えられる場所には、勝興寺がありますが、1584年(天正12年)に佐々成政が越中一向一揆に寄進し、勝興寺が移転してきたと言う事になります。
勝興寺に至る坂道の途中、伏木気象資料館(旧伏木測候所)がある場所が、越中国守館跡とされます。
その国府に746年頃に赴任したと考えられる、大友家持の銅像もありました。
天正5年(1577年)12月23日「上杉家家中名字尽」では、神保安芸守(神保氏張)と勝興寺の名が見受けられます。
天正9年(1581年)4月、越中・木舟城の石黒成綱が、越中・安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ちしました。
天正11年(1583年)、佐々成政は、越中を平定すると、神保氏張も従っています。
天正12年(1584年)、佐々成政が豊臣秀吉と対立し、前田利家とも争うようになると、越中一向一揆を味方にするため、古国府城跡を勝興寺に寄進し、移設・再建しました。
天正13年(1585年)、富山の役にて佐々成政は降伏し、勝興寺の周辺など越中は、金沢城・前田家の所領になっています。
しかし、幕末まで、勝興寺は前田家から保護されました。
勝興寺の唐門は京都・興正寺から移築した門で、本堂と共に国の重要文化財に指定されています。
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古国府城への交通アクセス・行き方ですが、JR氷見線の伏木駅から、350m、徒歩で約5分の距離です。
駐車場は、勝興寺にクルマを止められるようです。
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