世田谷城とは
世田谷城(せたがや-じょう)は、東京都世田谷区豪徳寺にある平山城で、標高は37mになります。
住宅地になっており、地形が分かりにくいですが、南に突き出た微高地の上が世田谷城です。
豪徳寺がある敷地が、かつての世田谷代の本丸だったのではと考えられていますが、その南側にも城跡と考えられる場所(世田谷城阯公園)があります。
豪徳寺の境内では、城跡と思われるような遺構は見当たらないのですが、三重塔の脇に、こんもりとした土塁や物見台のような小山があります。
これは、戊辰戦争の際に、大鳥圭介の旧幕府軍に加わり戦死した彦根藩士11名の首を弔った「えい首塚」(上記写真)です。
えいと言うのは埋めたと言う意味になります。
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世田谷城の遺構と考えられるものは、豪徳寺の南東側に多く見受けられます。
まずは、豪徳寺の入口となる山門付近の土塁と思われる写真が下記です。
世田谷城は、足利氏と同族の奥州(武蔵)吉良氏系である吉良治家が、1366年に鎌倉公方・足利基氏より武蔵・荏原郡世田谷を拝領して居住するようになり、世田谷館を築いたと考えられ吉良御所、世田谷御所とも呼ばれました。
平山城の分類に入るそうですが、標高37mで、比高は4mですから、平城と言ってもおかしくありません。
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吉良成高の代には、太田道灌ともに江戸城を防衛などしており、太田道灌から「吉良殿様」と呼ばれています。
吉良頼康は、北条氏綱の娘・高源院を正室に迎えておりますが、実子に恵まれず、駿河今川家の一族である堀越貞延の次男(吉良氏朝)を養子に迎えました。
1562年、吉良氏朝は北条氏康の娘を迎えており、いかに北条家が吉良氏を重視していたかわかります。
やがて吉良家は本拠を横浜の蒔田城へ移したため、世田谷城は北条氏直の直轄となったようです。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、世田谷城は陥落し、徳川家康が江戸城に入ると世田谷城は廃城となりました。
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吉良氏朝の子・吉良頼久は、のち徳川家康に仕えると「蒔田頼久」と名を改め、江戸幕府では高家旗本として上総1125石となります。
なお、赤穂浪士で出てくる吉良上野介(吉良義央)は、徳川家に古くから仕えた吉良家本流・三河吉良氏(西条吉良氏)の出身です。
そのため、吉良上野介の三河吉良氏が断絶すると、蒔田氏が吉良姓に復しました。
なお、豪徳寺に隣接する吉良家の菩提寺・勝光院には、吉良一族の墓があるそうです。
豪徳寺の南東にある「世田谷城址公園」まで足を進めますと公園の一部は散策できるようになっています。
現在の淡島通りに面していますので、その昔の古道だったのでしょう。
ここまで来ますと「堀」と考えられる遺構や、小さな郭と思われる遺構が残っていました。
さぎ草の伝説の主人公である常盤姫も、ここに住んでいたとされます。
しかし、なにせ、所狭しと家が立ち並ぶ世田谷ですので、世田谷城の全体像を知るにはもう不可能だと思います。
そのため、城域もよくわかっていないようですが、現地の案内は下記の通りです。
交通アクセス
世田谷城への交通アクセス・行き方ですが、豪徳寺には東急世田谷線の宮の坂駅から徒歩5分ほどです。
世田谷城址公園の場所を念のため、地図でも残しておきます。
あと、徒歩10分くらい東に歩きますと、皮肉にも大老・井伊直弼と相対した吉田松陰の墓がある「松陰神社」もあり、なかなか見どころがある世田谷です。
駐車場は豪徳寺の参拝者用駐車場の利用もできるのかな?と感じます。
別途、豪徳寺と、井伊家墓所と井伊直弼の墓の記事もございますので、よければ合わせてご覧頂けますと幸いです。
また、訪問の際には、松陰神社とセットでどうぞ。
・豪徳寺の招き猫 幻想的な井伊家墓所と井伊直弼の墓
・井伊直孝に関してはこちら
・大老・井伊直弼~開国を唱えるも桜田門の変にて横死する
・松陰神社【東京都】吉田松陰の墓への行き方
・喜多見城(喜多見陣屋)のちょこっと解説~優秀だった江戸勝忠(喜多見勝忠)?
・太田道灌の解説~忠義を貫いた扇谷上杉家の名将~伊勢原・太田道灌の首塚も
・北条氏綱とは~関東進出の基盤を作った政治力ある小田原城主
・成宗城の解説~東京都杉並区にある城跡・大橋成宗
・武蔵・奥沢城 東京23区の城跡と常盤姫の伝説
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