菖蒲城(しょうぶじょう)は、埼玉県久喜市菖蒲町新堀なある古河公方・足利成氏の家臣である金田氏の居城で、1456年に金田式部則綱が築城した平城です。
竣工が5月5日の菖蒲の節句だったことから、菖蒲城と名付けられたともされています。
1455年6月、鎌倉公方・足利成氏が府中・分倍河原から古河へと逃れた際に「武州少府」に逗留したと「鎌倉大草子」に記述があります。
この「少府」は「菖蒲」の地ではないかとされています。
その足利成氏の家臣になった金田氏が、築城を命じられたものと推定されています
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菖蒲・佐々木氏とも呼ばれる初代の金田則綱、金田氏綱、金田顕綱、金田定綱、金田頼綱と続きますが、6代・金田秀綱は、忍城主・成田氏長(成田下総守氏長)に従っています。
成田家の家臣としては、20貫文・金田備前、12貫500文・金田斎宮と見受けられます。
1574年には、北条氏政(北條氏政)と対立した上杉謙信が菖蒲城や騎西城の城下町を焼き討ちしています。
豊臣秀吉が小田原攻めを行った際に、菖蒲城はほとんど戦わずに開城したようで、徳川家康が江戸城に入ると廃城となりました。
金田氏は帰農したようで、大塚姓を称しています。
現在の菖蒲城に目立った遺構はありませんが、周辺は35000株の「菖蒲城趾あやめ園の花しょうぶ」となっており、戦国時代も「沼地」に囲まれていたものと推測できます。
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徳川幕府が開かれると内藤正成が5700石にてこの地を治めますが、栢間陣屋(久喜市菖蒲町下栢間)を構えており、菖蒲城は使われなかったようです。
その徳川幕府の旗本・内藤家にあった栢間陣屋裏門が、現在の菖蒲城の場所に1998年「移築」されています。
写真はに車が写っていますが、菖蒲城を綺麗に清掃されている方(シルバー人材センターさん?)の車でした。
県道12号沿いにある菖蒲城跡は、県道の反対側に「無料駐車場」(未舗装・40台)があります。
駐車場の場所は下記の地図ポイント地点です。
久伊豆神社
次に騎西城に行こうと、運転しつつカーナビを見ていましたら「久伊豆神社」の表示があるではないですか?
と言う事で、高校生クイズに出場される方々の「聖地」となっている「久伊豆神社」についでに寄ってみました。
下記の写真がそうです。
訪問した際には、久伊豆神社だと信じていたのですが・・。
有名な割には、社殿がちょっと・・。
帰って久伊豆神社を調べて見ますと、今回たまたま見つけて訪問した久伊豆神社は、久伊豆神社でも、下新堀・久伊豆神社と言うらしいです。
でも、社殿も1709年に建てられたと言う、少しは歴史がある建物です。
有名な方は越ケ谷・久伊豆神社との事で、運転しながらカーナビを見て私が訪れたのは、下新堀にある久伊豆神社でした。
ちなみに、上新堀にも久伊豆神社がありまして、この近辺は、久伊豆神社だらけなようです。
ただし、ここの下新堀・久伊豆神社は、菖蒲城の守護神として建立された神社であると言う事です。
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「しょうぶ」の城の守護神である「クイズ」神社でしたので、ある意味「本物」の久伊豆神社を訪問できていました。
下記の地図ポイント地点となります。
・武蔵・加納城~桶川に残る堀跡と土塁
・関宿城の訪問記と写真集~坂東武者を物語る歴史ある地
・関東の役職である鎌倉公方・関東管領・古河公方などを解説【古河御所訪問記も】
・府中の高安寺城と名刹・高安寺~藤原秀郷も
・足利氏姫~古河御所にて名門足利家の意地貫き通した関東の女城主
・騎西城(私市城)~土塁も残る成田氏傘下の城跡
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