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浄福寺城(案下城) 浄福寺 大石家が築城し北条家が改修した山城

浄福寺城(案下城)

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浄福寺城(じょうふくじじょう)は、東京都八王子市下恩方町の山城で、標高360m(比高約150m)の山の尾根上に、曲輪・空堀・土塁のなど遺構が残されています。
築城は1384年で、関東管領・上杉憲顕に仕えた、二宮城主(二宮館主)・大石信重(おおいし-のぶしげ)であるとされます。
木曾大石系図によると、大石信重が至徳2年(1385年)に二宮の館から、浄福寺の館に移ったとあります。


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なお、文献では新城(二城)(にいじょう)、案下城(あんげじょう)、松竹城(まつたけじょう)、千手山城(せんじゅさんじょう)など様々な別称でも登場します。
案下と言うのは八王子の古い名称で、その昔、甲府に抜けるのには主要な案下峠(現在の和田峠)からの案下古道(陣場街道)の抑えとして機能しました。すぐ東には「川原宿」もあります。
ただ、戦国時代の頃には地元の地名でもある松嶽城(まつたけ)と呼ばれていた可能性が高いです。

浄福寺

なお、麓の浄福寺は文永年間(1264~1274年)に、広恵上人により開基されたと伝わりますが、1525年に大石道俊・大石憲重の父子が大檀那となり再興したそうです。
ただし、その前年、1524年12月14日に浄福寺城は、山内・上杉憲政勢によって落城し、大石道俊・大石憲重は小田原城まで逃げたと、新編武蔵風土記稿に記載されています。

大石家が臣従していた山内上杉家・上杉憲房が1525年に没し、当時、まだ3歳と考えられる上杉憲政が家督を継いだ際の争いなのか?、それても北条家に反旗を翻した謀反の報復か、1527年にも上杉憲政勢が松嶽城(松竹城)を攻撃したとあります。
この時、大石家は不意を突かれ、討死多数で敗戦となったようで、その後、山内上杉氏の一族である扇谷上杉朝興に仕えたようです。

浄福寺の古井戸

1545年、北条氏康河越城の戦い(河越夜戦)で、扇谷上杉家・上杉朝定が討死すると、大石定久は北条家(北條家)に屈服します。
そして、北条氏照(北條氏照)が大石家を継いだ際に、最初に入ったのがこの浄福寺城とも言われています。

浄福寺城の遠景

1590年(天正18年)、豊臣秀吉小田原攻めの際には、八王子城の出城としては最大級の規模を誇りましたが、八王子城の落城とともに浄福寺城も落城し廃城となった模様です。

ただし、浄福寺は徳川家に認められて、1591年11月、御朱印10石を賜り、山梨にまたがって末寺15ヶ寺を擁したと言います。
大石氏が元々源氏と縁があると言う事からか、浄福寺の寺紋は「笹りんどう」です。

浄福寺城への登城・訪問記

浄福寺は恐らく昔からあり、かつて城主の居館は恩方第一小学校あたりにあったものと推測致します。
城域への大手口は、恩方第1小学校の西側にある山麓の墓地付近からのようですが、登れる道もかなり荒れているとの事です。
だった?ようですが今は道もあってないようでして、現在は更に西側の浄福寺にある白山神社(白山大権現)の社の脇へと登るルートが一般的になっているようです。
と言う事で、浄福寺城への登城ですが、現在の浄福寺の裏山が城址となるので、車はお寺の駐車場に止めさせて頂きました。

浄福寺城への登山口

上記が浄福寺城への登山口となります。
浄福寺の境内、西側墓地に白山神社(白山大権現)の社があり、その脇から登れます。

浄福寺城

しばらくは郭に建てられている「観音堂」へ通じる山道を登って行きます。

浄福寺城の観音堂

上記はその観音堂です。
もう、既に息が切れますが、手を合わせて先に進みます。
しかし、昔は静かなところだったのでしょうが、小仏峠同様に、圏央道の高速を行きかう車の音に、違和感を感じます。

浄福寺城

山城の浄福寺城は本当にあなどれません。
すべて周るのには3時間くらい掛かりそうですし、道は山道ですので枯れ葉や小石も多く滑りやすくて、軽登山の装備も必要です。

浄福寺城

そのため、登山用のトレッキングポールと、軽登山用の靴の装備にて登りました。
尾根上に上がると小郭、虎口形状、堀切などがあり、見応えがあります。

浄福寺城

途中、麓の集落のテレビアンテナが郭にありましたが、横目に進んで行きます。

浄福寺城

途中、小さな郭らしく平坦地がいくつもあり、なかなか山城らしいです。
倒木も何箇所もあり、クモの巣にも注意が必要です。

浄福寺城

私も訪問する前には、他の城と違い、かなり時間を掛けて情報収集もしました。
夏場は虫やヤブもすごいだろうと考え、11月上旬になってから訪問してみたのですが、11月でもちょっと早かったようです。
1月~3月が最適なような気がします。

浄福寺城

上記は山頂手前の虎口形状です。
しかし、浄福寺城の水の手はどこだったのでしょうか?

浄福寺城の本丸

中腹の観音堂から比高70mほどで主郭の千手山(標高356.4m)に到着します。
二段になっており、上段に三等三角点と小さな祠がありました。

浄福寺城の金比羅神

浄福寺の説明によると金比羅神との事です。戦いの神様ですね。
現在は木に覆われていますので、展望は望めませんが、津久井城の本丸と同じくらいの広さがあります。
ここまで麓から約20分の登山でした。

ただ、この主郭まできても、浄福寺城は全体の20%しか見たことになっていません。
規模的には東西約800m×南北約600m/約160mですので、ここまで来ても、まだ4つの尾根など80%残されています。


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今回は、全部見る覚悟と装備でやってきたのですが、各写真のとおり、まだ木々に青い葉っぱが残っており、虫がまだいたのと、その本郭から東へと進む道が、また下っていました。
上り下りが多い尾根は私の最も苦手とするところでして、ここから先は断念しました。

このように、東京近郊にて中世の山城を見学できると言う意味では非常にお勧めの山城でして、遺構の充実した山城で、曲輪(郭)の数だけでも36以上はあると思います。
北条流の縄張りを見たい方にも東側はお勧めですが、史跡として整備されている訳ではありません。

浄福寺城

上記は人工的に削ったあとと、土橋と思われる道の写真です。

滝山城などと比較すると、浄福寺城の築城の方が古そうです。
ただし、浄福寺城の北側は戦国期に改修されたのか、北条家特有の畝堀が見られるそうです。
更に北側に尾根があったのかも知れませんが、現在、北側は「砕石場」になっており、山は削られてしまっており、唯一残念な点です。


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浄福寺城の尾根式城郭は5つの尾根に伸びており、小生がこれまで訪れた山城で最大の尾根数でして、千手山城とも呼ばれた理由がわかるような気がいたしましたが、浄福寺では千住観音を祀っているそうなので、浄福寺の山号が千手山と言う事らしいです。
ちなみに千手観音様は秘仏となっており、毎年4月17日だけご開帳されるそうです。

麓に降りると、手の甲と腕には、ダニに刺されたようなボツボツがあり、かゆかったです。
帰りは日帰り温泉に浸かり、疲れを取ってから帰宅したのは言うまでもありません。

浄福寺城近くの日帰り温泉は下記がお勧めです。
京王高尾山温泉「極楽湯」
竜泉寺の湯 八王子みなみ野店

さて、浄福寺城への行き方・交通アクセスですが、下記の地図ポイント地点の場所が浄福寺の参拝用駐車場です。
ありがたく利用させて頂きました。

浄福寺城近くの「心源院」もセットでどうぞ
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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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