伊予・松前城(まさきじょう)の築城時期は不明であるが、平安時代初期には、すでに定善寺(性尋寺)(現在の金蓮寺)があり、交通の要衝であったようだ。
現在の愛媛県伊予郡松前町にある平城になる。
南北朝時代の城主としては大森彦七や、南朝方の会田定遠などが見られるが、松前城を北朝方の祝彦三郎安親が攻略したとある。
別名は正木城、真崎城、松崎城。
標高は4mで、比高は1mと言えよう。
戦国時代には、河野家の栗上通宗・宗閑が松前城主となっていたが、1585年、豊臣秀吉の四国攻めにて河野通直が敗れ、松前城は小早川隆景によって攻められ落城した。
1588年には、松前城主10万石となった粟野秀用の居城となった。
この粟野秀用(あわの-ひでもち)は、もともと伊達政宗の家臣であったが、罪を犯して京都に逃亡し、豊臣秀吉の家臣となり戦功を挙げた武将である。
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その後、粟野秀用は関白・豊臣秀次の付家老として13万石、1590年には合計16万石と出世したが、1595年の秀次事件に連座し、京の三条河原にて斬首(または大雲院にて無罪を訴えて自害?)して果てた。
さらにそのあと、6万石で入った加藤嘉明は、この松前城を本拠地として改修・整備した。
足立重信らに命じて、伊予川(を改修し、松前港を大拡張したり、金蓮寺を現在の場所に移転させた。
その川の名は、現在、重信川と呼ばれている。
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1600年、関ヶ原の戦いにて加藤嘉明は徳川家康に味方して関ヶ原本戦でも陣を構えたため、留守の松前城には毛利水軍や村上水軍が押し寄せた。
多勢に無勢で、家臣の佃十成らは降伏すると見せかけて、毛利勢を油断させると、200で襲撃した夜襲が成功。
毛利勢に加わっていた村上水軍の頭領・村上元吉などが討死している。(三津浜夜襲)
この関ヶ原の功績で加藤嘉明は20万石となり、1601年、勝山城(松山城)の築城許可を得ると、1602年から松山城の築城を開始した。
この時、松前城の石垣などは全て運ばれたと言う。
そして、1603年に本拠地を松山城に移したため、松前城は廃城となった。
松前城は、重信川の河口左岸にある三角州に築かれていた。
その河口付近の砂丘と湿地帯を利用している要害でもあり、海城でもあった。
松前城(正木城)の訪問記
と言う事で、松前城(正木城)にも行って参りました。
城跡と言っても、ちょっとこんもりとした丘部分が、小さな公園となっているような感じです。
一応は説明版や石碑も設置されていますが、特に遺構などが残っていると言う訳ではありません。
松山城にある筒井門は、松前城の門を移築したと云わります。
松前城(正木城)への行き方ですが、県道214号線の東レ工場付近にあります。
下記の地図ポイント地点となります。
ただ、駐車場は無く、県道も駐車禁止でしたのでちょっと困ったのですが、北側の脇道が駐車禁止では無かったので、通行の妨げにならないところで短時間止めさせて頂きました。
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