島原城とは
島原城(しまばらじょう)は、長崎県島原市城内にあり、森岳城・高来城とも呼ばれる連郭式平城で、日本100名城にも選ばれています。
1616年、自らの領地替えを希望した日野江城主・有馬直純が、延岡藩に転封となり、代わりに松倉重政が日野江藩主となりました。
しかし、日野江城は古く手狭だったため、1618年に島原城を新築開始したのです。
島原城の場所は、かつて森岳という独立した丘陵地になっていたそうです。
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この松倉重政(まつくら-しげまさ)は、筒井城主である筒井順慶の家臣・松倉重信の長男として1574年頃に生まれました。
母は秦楽寺氏の娘です。
父は、1582年、本能寺の変の際に、明智光秀から筒井順慶への要請に対し「洞ヶ峠の日和見」を献策した武将ともされています。
筒井定次が伊賀・上野城へ転封となると、父・松倉重信は伊賀名張に約8000石を与えられたようです。
しかし、島清興(島左近)が筒井定次と合わなく、大和・郡山城主となった豊臣秀長に仕えたのと同様に、子の松倉重政も大和に残ったともされ、豊臣秀長の家臣として8000石になったとも考えられます。
1600年、関ヶ原の戦いの際に、松倉重政は単身で徳川家康の元に参じたため、戦後、10000石の大名に取り立てられ、大和の五条二見城主となりました。
大和五条藩では諸役を免除して商業振興を図るなど、紀州街道に面した五條城下町の整備に尽力しています。
現在の奈良県五條市では、松倉豊後守重政の官名から、名君「豊後様」として現在でも高い評価を受けています。
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1615年、豊臣秀頼との大坂夏の陣では、大和・郡山城を救援し、道明寺の戦いで後藤基次(後藤又兵衛)と戦いました。
この戦功により松倉重政(松倉豊後守重政)は、1616年、肥前・日野江藩4万3千石と抜擢され日野江城に入りました。
そして、築城の名手とされた松倉重政は、1618年に島原城を造営開始しました。完成したのは1624年です。
島原城は総石垣で尚且つ独立式層塔型5重5階と言う大きな天守を持ち、更には櫓が49棟も建てられたと言いいます。
これは僅か4万石にしては、大変立派なお城です。
これにプラスして江戸城の修築もあったと言うので、島原の領民は大変苦労したようです。
現在の島原城の天守は1964年に建てられた復興天守となります。
長方形の本丸は水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋の木橋が1本掛かっていました。
他に本丸への出入口がないのは、高松城と似ています。
本丸からの唯一の脱出口でも二の丸への廊下橋(出入口)を敵に奪われたら、本丸からは逃げるのが困難なので、縄張り(設計)に欠陥があると指摘される方もおられます。
しかし、実際問題、二の丸も落ちると、本丸で抵抗すると言うよりは「降伏」してしまうことが多いんですよね。
もしくは、本丸で討死覚悟で玉砕する・・。
そもそも、水堀などで囲むのは、恐れをなした逃亡兵を抑止すると言う意味合いの方が強いですので、出入口が1箇所と言うのは、防御もそこに集中できますし、小藩の場合、私は理に適っていると存じます。
丑寅櫓・巽櫓・西櫓なども外観復元で見事ですが、気のせいか、現代でも税金をかなり投入しているような気も致します。
見学する側としては、無いよりあったほうが、非常にうれしく、こうして訪問させて頂く訳ですが・・。
下記は巽三重櫓です。
下記は西櫓です。
なお、九州は南蛮貿易の利があるため、当初はキリシタンに寛容だった松倉重政でしたが、徳川幕府は鎖国政策を取り、改めて禁教令を出します。
そして、1625年に、将軍・徳川家光から、キリスト教弾圧が甘いと指摘され、松倉重政は徹底的な弾圧を開始する事となりました。
1627年には雲仙地獄の熱湯で、キリシタンの拷問・処刑を行ったとも記録があります。
下記は島原城本丸の北側にある四基のキリシタン墓碑です。
下記は天草四郎の像ですね。天守の裏側の方にあります。
もともと、雲仙の島原半島は火山灰や溶岩流の地盤であるため、作物が余り育ちません。
そのため、領民はタダでさえ貧しい暮らしを強いられていたため、実質的な島原藩の石高は21000石でしかなかったともあります。
よって、2倍近い重税に苦しみ、更に普請に人手も駆り出され、追い打ちを掛けるようにキリスト教の弾圧と、不満を募らせて行ったようです。
また、松倉重政はキリシタンの根拠地であるルソン攻撃の許可を幕府から取っており、さらなる戦費を領民に課したとされます。
しかし、1630年11月16日、松倉重政は小浜温泉で急死しました。享年57。
下記は松倉重政を祀った社で、島原城の天守がある本丸にあります。
あとを継いだのは、正室・筒井定慶の娘との間に、1597年誕生していた嫡男・松倉勝家です。
島原城の天守内部の展示もなかなか見ごたえがありました。
ただ、5階だてなので、最上階までの階段は、お年寄り大変です。
天守の最上階からの展望です。
なんか、最近はこの手の高いところ、犬山城の天守に登った際に、欄干にたくさん人がいてギシギシ言い、建物が倒れるのではないか?と恐怖を抱いて以来、苦手になってきています。
島原城の駐車場
さて、島原城への行き方・アクセスですが、本丸の天守脇が有料駐車場になっています。
天守が建っている目の前が駐車場と言うのも珍しいです。
車を降りて10歩もあるくと天守入口の階段です。
現在クルマで本丸入れる場所にある橋と言うか連絡道路は、あとからつけられたものとなります。
下記の地図ポイント地点から城に入ってください。
島原駅から徒歩で訪問される場合には、城の堀をグルッと周りつつ訪れると、撮影ポイントもたくさんあって良いかと存じます。
島原城の天守は朝9~17時30分までです。
ただし、私が訪問した朝8時30分頃には、まず駐車場ですが、有料のはずが「そのまま行って良い」と言われて無料で駐車場入れました。
もしかしたら、天守がまだ開いていない時間帯だった?ので、特別なご配慮だったのかも?知れません。御礼を申し上げます。
あと、先に本丸を歩いて櫓などを撮影していましたら、天守自体も朝8時50分にはフライングで入場できました。
これもありがたいです。ちなみにJAF割引使えます。
なお、天守の入場券で、各櫓の展示などもすべて拝観可能です。
また、駐車場の向いには軽食もあるお土産物店があります。
松倉勝家とは
松倉勝家(まつくら-かついえ)は、独自に検地をやり直すと、4万石を10万石と過大評価しました。
すなわち、領民は実質的に5倍もの税負担を強いられたと言う事になるかと存じます。
そして、島原城を全面白色に塗装するなど改修し、切支丹弾圧も残忍を極め、領民は更に苦しんだとされています。
特に1634年は悪天候で凶作でしたが、松倉勝家は重税を課し、更には人頭税や住宅税を新設したと、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記や、鍋島勝茂公譜の記述に見られます。
年貢を納められない農民や、村長ある庄屋からは妻や娘を人質にも取り、年貢を納めさせました。
長崎のポルトガル人ドアルテ・コレアは、人質の若い娘や子供に、藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死する姿を「蓑踊り」と呼んでいた記録しています。
1637年10月、村の年貢を納められなかった口の津村の庄屋・与左衛門の妻は、身ごもっていましたが、冷たい水牢に裸で入れられました。
庄屋宅に集まった村民は、何とか年貢を捻出する方法を話しましたが、すでに出せるものはなく、庄屋の妻は水の中で6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命したと言います。
そのため、遂にたまりかねた領民は、1637年10月25日に蜂起し、有馬村の代官所を襲撃して代官・林兵左衛門を殺害したのです。
これが日本最大の一揆となった「島原の乱」勃発の経緯とされています。
島原の乱に関しては、天草四郎と原城のコーナーにて触れていますので、割愛させて頂きます。
・島原の乱と天草四郎~ポルトガルの支援を待った70日に及ぶ原城籠城戦
1638年、なんとか島原の乱を鎮圧した江戸幕府は、島原藩主・松倉勝家と、飛び地だった天草の領主である唐津城主・寺沢堅高を処罰します。
松永勝家は改易(所領没収)となり、4月12日に美作津山藩主・森長継の元に預けられました。
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幕府の役人が、松永勝家の屋敷を調べたところ、桶の中から農民の死体も出て来たとされています。
そして、領国経営失敗と反乱惹起を問責され、1638年7月19日、江戸・森家の下屋敷で松倉勝家は斬首となりました。
江戸時代に大名が切腹ではなく、罪人として斬首刑に処せられることは大変異例で、この1件だけです。
松倉勝家弟・松倉重利は讃岐で謹慎、そのあと会津に預けられましたが、1655年に自害しています。
末弟・松倉三弥は浪人となりました。
ただし、松倉重利のご子孫は300俵の旗本として復活しています。
なお、最後に付け加えさせて頂きますが、キリスト教を弾圧するのは徳川幕府の政策であり、熊本城主だった加藤清正など、諸大名はみな弾圧をしています。
長崎奉行もしかりです。
1629年(寛永6年)に「絵踏」(ふみえ)を導入したのも幕府の決定事項です。
踏絵とは、キリストやマリアの像が描かれた絵・木板・銅板などのことで、キリスト教の信者を発見するため絵踏(えぶみ)させました。
足で踏むことができれば、キリスト信者ではないとされたのです。
もっとも絵踏み出来なくても、棄教、すなわちキリスト教を辞めれば、許されたので、基本的に殺害されるようなことはありませんでした。
棄教しなかった者が、棄教するよう拷問を受けたりした訳です。
やがてキリシタンの間では、心の中でキリスト教を信仰していれば問題ないと言う考えが広まります。
そのため、役人の前では堂々と絵踏みをしつつ、のちに神に祈って許しを請う信者が現れ始め、隠れキリシタンとなりました。
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また、沼田藩3万石の真田信利も、松倉重政と同じように、石高に見合わない大天守を沼田城に建てたり、実際の2倍以上の検地高14万4000石を報告しています。
そのため、領民は重税に苦しみ、餓死者も出たため、沼田では一揆こそ置きませんでしたが、領民・杉木茂左衛門が死罪を覚悟で、幕府の大老・酒井忠清に直訴をしています。
結果的に訴状は将軍・徳川綱吉の手に届き、真田信利は所領没収の改易となりましたが、杉木茂左衛門も禁止されていた直訴をしたと言う事で、妻子もろとも磔刑となりました。
島原・天草一揆(島原の乱)の一揆は最大であったため、注目されますが、その後も江戸時代には少なくも全国各地で27回以上の一揆が発生しています。
このように江戸時代に悪政を敷いたのは、島原や天草だけではないこと、島原の乱は宗教弾圧以外の側面が存在することも正しく理解して、歴史を捕える必要性があります。
ちなみに、キリスト教禁止は幕末・明治維新となっても続き、撤回されたのは1873年(明治6年)のこととなります。
さて、島原城は、1638年に、浜松城4万国だった高力忠房(こうりき-ただふさ)が島原藩4万石として入りました。
高力忠房は将軍・徳川家光の期待に応えて、島原の農民に1年間の年貢を免除とし、浪人らを島原に移民奨励するなどし島原の復興を成し遂げました。
その後、島原藩主は何回か変わりますが、すべて徳川譜代の大名が赴任しています。
交通アクセス
島原城へのアクセス・行き方ですが、島原鉄道・島原駅から徒歩5分と便利です。
クルマの場合、下記の地図ポイント地点が城内駐車場となります。
天守閣の目の前が駐車場となっています。
島原鉄道の島原駅からだと徒歩5分、島原城桜まつりなど、桜の時期も非常に良さそうな島原城です。
私の場合ですが、本丸部分と天守だけを見て見学所要時間は約30分でした。
天守の展示もじっくり見たり、周辺や二の丸も見る場合には、時間を足して計算願います。
城下には3軒の武家屋敷が無料公開もされており、大変お勧めです。
他にも本光寺や沖田畷合戦場跡も見どころです。
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