奈良県

椿井城 椿井道懐の居城

椿井城

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椿井城(つばい-じょう)は、奈良県生駒郡平群町椿井にある標高318m、比高230mほどの堅固や山城で、別名は椿井山城とも言います。
矢田丘陵の南西端に位置する尾根上に築かれています。
連続して郭が並ぶ 連郭式として築かれた
最初の築城は当然不明ですが、椿井氏の居城だったとされます。
椿井氏には山城・椿井氏と、この大和・椿井氏の2系統があったようで、鎌倉時代の藤原頼経の子孫が平群(へぐり)の椿井に住し、椿井氏を称したともされます。
その後、椿井氏は興福寺・大乗院の衆徒として見受けられます。


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奈良の興福寺(こうふくじ)は、藤原鎌足ら藤原氏の氏寺(祭祀儀礼の場)です。
そのため、平安時代には大和国にある荘園のほとんどを領し、事実上の大和の国主になっていました。
そして、一乗院と大乗院が門跡寺院として栄え、戦国時代に入っても、大和の武士や僧兵を勢力下に納めており、室町幕府も大和にだけは守護や守護大名を置くことがでずにいました。
その大和の2大権力である一乗院と大乗院に属した国人を「衆徒」と「国民」と更に分けて呼びました。
本来であれば衆徒(しゅうと)は、寺の運営にあたる僧侶と言う事になりますが、大和(奈良)だけはちょっと意味合いが違ってきます。
興福寺の運営にあたる有力国人らを「衆徒」とし、春日社の神人(国人)らを「国民」として呼ぶことが多いようです。
例えば重要なポストに国民はなれませんでしたので、簡単な話、衆徒のほうが身分が高いと言えます。
戦国時代に入ると興福寺の勢力が衰退し、大和四家と言われる衆徒だった筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏が頭角を現しました。

椿井城

戦国時代には、椿井道懐(椿井越前入道道懐)が椿井城主で、家臣には木澤因幡守、立野伯耆守、郡山越中守、巨勢兵庫、大住民部、荒木遠江守がいたとあります。
これが本当ですと、大和・立野城主の立野伯耆守は、椿井道懐の家臣だったようです。

なお、1486年に、椿井懐専が島左門と戦い12月28日に討死したとあります。
しかし、翌日に木澤因幡守ら椿井氏の家臣らが反撃して、島左門を討ち取ったか、捕縛したとされます。
このように、筒井氏との争いにて、嶋氏から攻撃を受けたようですが、椿井懐専は、大和ではなく山城・椿井氏ですので、遠征したきたものと推測されます。
そのため、この頃の椿井城は、すでに嶋氏が手に入れていたようです。

椿井城

なお、最終的には嶋左近の居城になったとされますが、この点は裏づけが取れません。
椿井城の最後の頃には、筒井家重臣・八條長祐(はちじょう-ながひろ)が入っていたとされます。
ただし、城跡の技巧的には、松永久秀(松永弾正久秀)が支配して改修した可能性があるようですので、信貴山城の出城として機能させたのかも知れません。

椿井城

大和・椿井城への交通アクセス・行き方ですが、近鉄生駒線の竜田川駅から徒歩約15分で登城口となります。
駐車場は、椿井城の資料もある道の駅「大和路へぐり」の第2駐車場が便利で、常年寺から登城可能です。
なお、春日神社の北側が大手道のようで、城址は整備されており、30分ほどで本丸跡まで登れるようですが、急登のようです。
椿井城の北側のほうからのほうが、地図では近いのですが、ロープで登り降りする箇所もあるようで、困難な模様です。


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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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