武節城
武節城(ぶせつじょう)は愛知県豊田市武節町にある別名を地伏城(じふせ)・竜の城とも呼ぶ平山城で、標高は550m、比高は麓の旧飯田街道とで50mです。
永正年間(1504年~1521年)に菅沼定信が築いたあと、菅沼定信の時には田峯城の支城として、一族の菅沼十郎などが城代を務めていました。
なお、弘治2年(1556年)に武田家の下条信氏が攻めており、激戦の末に落城すると、甲斐・武田の支配下となっています。
1575年、長篠の戦い敗れた武田勝頼は、甲斐へ逃れる途中に寄ったのがこの武節城となります。
田峯城を追われた菅沼定忠とともにここで一泊しています。
武田勝頼は「梅酢湯」を飲むと、信濃へと向かったと言います。
写真に白いものが写っているのは「雪」でして、霊魂などではありませんので、ご安心を。
その後、反撃に出た徳川家康の家臣・酒井忠次が武節城を攻め、以後は奥平信昌の所領となりました。
大規模な堀切や横堀などは何段もの郭(曲輪)で造成されており、理想的な守りができる城郭と言えます。
とこから攻められても守りやすい構造です。
山頂の主郭には城山神社があり、その直下の二の丸まで、北側から狭くて急坂ながらも舗装路があり、クルマで本丸直下まで登れます。
ただし、西側には道の駅「どんぐりの里いなぶ」もあるので、そこの駐車場に車を止め、歩いて登るのも良いでしょう。
と言う事で、規模は大きくない分、とても訪問しやすい城となっています。
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※この記事は戦国武将列伝Ωの記事を再編集したものとなります。
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