岐阜県

荻町城 白川郷の城跡 山下氏勝と「おその」の逸話も

荻町城

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飛騨・荻町城(おぎまちじょう)は、岐阜県大野郡白川村荻町にある山城で、標高は545m、比高は60mほどになります。
世界遺産「白川郷合掌集落」を見渡す荻町展望台としても良く知られる観光地が荻町城跡で、たくさんの人が訪れる場所になっています。
最初の築城は不明ですが、南北朝時代に白川郷まで逃れてきた南朝の公家らがいたともされるようです。
室町幕府将軍・足利義満の馬廻衆で、内ヶ島為氏の代に足利義政の命にて白川郷に入り、白川郷で勢力を誇っていた一向一揆の正蓮寺(照蓮寺)を駆逐します。


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そして、向牧戸城を築いた内ヶ島季氏のときに、荻町城・新淵城も整備されたと考えらています。
その後、内ヶ島氏は鉱山経営で財を成し、帰雲城を本拠として戦国大名化し、内ヶ島為氏の重臣で一族でもある山下大和守に荻町城が与えられたようです。

荻町城

山下時慶・山下氏勝が荻町城主として知られますが、1585年、主君・内ヶ島氏理富山城佐々成政に加勢して援軍を出している間に、謀反を起こして、飛騨に侵攻していた羽柴秀吉勢の金森長近の帰雲城攻略を支援したようです。
ところが、内ヶ島氏の鉱山採掘能力に目を付けた羽柴秀吉は、内ヶ島氏理からの和睦の申し出を受けて所領安堵したため、以後、山下時慶・山下氏勝は金森長近に従ったようです。
これが運命の別れ目と申しましょうか、その数ヶ月後、天正地震が発生し、帰雲城に集まっていた内ヶ島氏や家臣らは、山崩れにて全員行方不明となりました。
山下時慶と山下氏勝は、その席に呼ばれていなかったため、生き残りと言えます。

荻町城

こうして、内ヶ島氏が滅亡したあとは、豊臣秀吉の家臣となり、小田原攻めでは先鋒を務も務めました。
のち徳川家康に仕えると近江・蒲生郡にて所領を得ています。

そして、1602年から、山下氏勝は徳川義直の傳役となり、1607年には、清洲城から城下町を移して名古屋城を築城すると言う案を出した「清洲越し」を進言しました。

さて、白川郷には、合掌造りの家でも最大規模を誇るとして、国指定重要文化財になっている和田家がありますが、その和田家と山下氏勝には下記のような伝承も残されています。

和田家

和田家戦国時代の1573年から、白川郷の庄屋を務めた家柄で、蕃所(番所)役人でした。
ある日、内ヶ島氏の家老である山下時慶(山下大和守時慶)が、子の山下氏勝と共に、蕃所見廻りで、和田弥右衛門の合掌造りの家を訪問します。

白川郷・和田家

和田弥右衛門には、絶世の美女と言われていた一人娘がおり、たくさんの縁談が入っていましたが、その娘は誰にも嫁ぐ気がなかったと言います。
娘の名は「おその」です。
おそのは、家老の子・山下氏勝(やました-うじかつ)に一目惚れしたそうで、その日から食べ物も喉を通らず、ついには寝込んでしまったと言います。
その姿を見た和田弥右衛門は、帰雲城へ登ると婚儀を申し入れ、おそのと山下氏勝は荻町城にて結婚したと伝わります。


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せっかくの恋話を台無しにしたくはないのですが、一般的に、山下氏勝の正室は、徳川義直(徳川家康の9男)の実母である相応院の妹とされます。
となると、相応院は「お亀の方」と言う京都の正法寺・志水宗清の娘ですので、山下氏勝の正室は志水宗清の娘と言う事になります。
そのため、おそのの伝承が本当だとした場合、やはり身分の差からか、側室扱いだった可能性があります。

白川郷の和田家さんに関しても、有料拝観ですが、平日・休日問わず、たくさんの観光客さんが訪れていますので、大変失礼な話、宣伝費もほとんど掛けず、良い商売だなと感じてしまいました。
重文ですので、修復にも国から補助金は出ますし、良いご先祖様をお持ちになられたことと存じます。

さて、荻町城は尾根の東側を土塁と堀切でカットしています。

荻町城

堀切の南側が大手の虎口になっていて、一部に土塁と石積が残っていました。
南西隅部には櫓台跡があるようですが、城主や家臣らの屋敷は山麓にあった模様です。

荻町城

下記は、荻町城の無料駐車場の様子です。

荻町城の無料駐車場

手前にある城山天守閣の駐車場に入りたくなりますが、やり過ごして、少し坂を下がった先にあります。
ただし、観光客が多いため、時期によっては通行止やタクシー・バスのみ通行可能と言う事もあるようですので、情報入手に努めて頂けますと幸いです。
白川郷の集落側からクルマで登って行くことはできません。東側よりクルマ進入願います。

荻町城の無料駐車場

荻町城跡展望台への交通アクセス・行き方ですが、麓の「和田家スイレン池前」バス停から「城山天守閣駐車場」行きの連絡バス(シャトルバス)が出ています。
下りは歩いても白川郷の村に降りても良いですが、行きはバスを利用するのも便利です。
ただ、平日でも混雑することがありますので、早めに並びましょう。
しかし、その列も、外国人が大半のため、正直、めちゃめちゃですが・・。

「城山天守閣」と言うのは食堂の名称で、実際には無料の展望台になっており、たくさんの観光客でごったがえしています。

白川郷

白川郷じたいへの交通アクセスとしては、クルマの場合には「せせらぎ公園」の有料駐車場に止めてから、歩いて白川郷の集落を抜けて、荻町城跡展望台へ行くと言う感じです。
下記の白川郷マップもご参照願います。

白川郷マップ

なお、白川郷の世界遺産集落内は、景観保全と安全対策のため朝9時~16時は車両通行禁止です。


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それにしても、よっぽど注意していないと「荻」と「萩」の漢字は、間違って変換されてしまいます。
ここまで来たら、帰雲城とセットでどうぞ。

帰雲城 大地震で埋没し行方不明になった内ヶ島氏理
内ヶ島氏理 土砂に埋もれた悲劇の武将
金森長近~赤母衣衆から北陸方面を任される
白川郷 駐車場情報・交通アクセス
和田家住宅 白川郷の歴史 合掌造り


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コメント

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  • コメント (2)

    • あき
    • 2020年 4月 29日

    こんにちは。
    帰雲城関係の話を調べていて、このページを訪問しました。

    おそのさんの話はおいといて、
    山下時慶・氏勝親子は、内ヶ島氏理の降伏後、そんなにすぐには金森氏に従ってなかったと思うのですが。
    (ゲリラ化していたって話もありますし)

    向牧戸城を守っていた、川尻氏信という家老が降伏して、慌てた氏理が降伏した→結果、川尻氏信は宴会には呼ばれなかったという話もあります。
    前半の話、混ざってませんか?

  1. ご高覧賜りましてありがとうございます。
    あきさまのご推察のとおりでして、よくわかっていないことのほうが多いくらいです。
    そのため「ようです」など、当方も断定できていない前提にて、調査した結果の可能性のひとつとして、ご紹介申し上げておりますので、ご確認申し上げます。
    何か新しいことをご存知でしたら、また、ご指摘のほど賜ります、非常にうれしく存じます。

城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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