岐阜県

御嵩城 小栗重則と小栗教久 御嵩城の戦い

御嵩城

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御嵩城(みたけ-じょう)は、岐阜県可児郡御嵩町城町にある標高241mの山城で、比高は60mで、別名は美濃・御嶽城とも書きます。
御嵩城には「ホンジ山」と言われる主郭の本陣山城と、出丸の権現山城(標高188m)と2つのピークがあり、その両方を合わせて御嵩城と言います。
最初の築城は不明ですが、権現山城がずっと使われていて、応仁年間の城主としては斎藤妙春とされます。
斎藤妙椿(さいとう-みょうちん)は、美濃守護代・斎藤宗円の子とされ、のちに室町幕府の奉公衆となりました。


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その後、戦国時代には小栗重則(小栗信濃守(古信濃)重則)が御嵩城主となって、より強固な本陣山城を築いたと考えられています。
小栗重則は、美濃・高山城(土岐高山城)の高山伊賀守が死去すると、1552年(1556年?)に攻撃して領地拡大を試みたともあります。

御嵩城

しかし、美濃・明知城主の遠山景行に迎撃され、武田信玄の命を受けた平井光行・平井頼母の親子や、小里城主の小里光忠らが高山城を救援しました。
そのため、小栗信濃守は逆に御嵩城(本陣山城)を攻められて、自刃したとあります。

御嵩城の本丸

ただし、子の小栗教久(小栗信濃守(今信濃)教久)が、その後、御嵩城主となっているため、滅亡した訳では無さそうです。
その小栗教久は、1552年に、明智氏の一族とされる土岐定政(明智定政)を攻撃したともあります。

小栗教久は織田信長に協力しており、1565年には、鳥峰城主・森可成の配下として東美濃の攻略に協力しました。
そのため、武田勢によって御嶽城は包囲されました。

御嵩城

ところが、御嵩城には蛇が多く住んでいて、蛇神の加護があるという噂が昔からあったようで、武田勢が石垣を登ろうとすると、石垣の隙間から霧が発生して見えなくなり、攻撃が失敗したともあります。
地元では、権現の使者「白蛇」が霧を出したと信じられていたようです。
武田勢は、近くに美濃・小原城(可児郡御嵩町小原)を築いて、御嶽城を抑えて牽制したとされます。

御嵩城

その後、小栗教久の動向は不明ですが、美濃・金山城と、御嵩城が織田勢の最前線となりました。
1574年には、美濃・明知城を救援に向かった織田信長・織田信忠の親子が御嵩城に宿泊しました。

御嵩城

美濃・金山城主である森忠政が、信濃・川中島へ移封されると、金山城も御嵩城も廃城になったと考えられています。
 
現在、御嶽城址公園として整備されています。
本陣山城のほうは、公園化でだいぶ改変されてしまっているようですが、権現山城址のほうには金峰神社があり、遺構も残っているようです。


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御嵩城への交通アクセス・行き方ですが、 名鉄・広見線の御嵩駅からタクシー利用となります。

御嵩城の本陣山城は、公園として整備されているため、広い道路で、近くまでクルマで上がって行くことが出来、昼間は無料駐車場が開放されています。(17時以降の夜間は閉鎖)
駐車場は舗装されていませんが、とても大きいです。

その駐車場からは階段を登って行かないと、本丸にはたどり着けません。
その階段がちょっと大変でした。
あまの見るべきところが無いため、見学所要時間は10分といったところで、階段の往復時間となります。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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