山城国・山崎城(やまざきじょう)は、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎にある山城です。
標高は270m、淀川との比高は240mと堅固な城で、国指定史跡にもなっています。
別名は、鳥取尾山城、天王山宝寺城、天王山城とも呼ばれます。
その山崎城の中腹には、宝積寺があります。
山城・山崎城と宝積寺
宝積寺(ほうしゃくじ)は、724年、聖武天皇の勅命を受けた行基による開基とされており、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀っています。
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そのため通称は「宝寺」(たからでら)と言い、大黒天宝寺として商売繁盛のお寺として知られています。
宝積寺は山崎の戦いの際に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が本陣を置いた場所となります。
1582年、本能寺の変のあと、羽柴秀吉の中国大返しに対して、明智光秀は男山城と山崎城へと、先に陣を張りましたが、結局、淀古城、勝竜寺城へと退却し、そのあと羽柴秀吉が高所で有利な山崎・宝積寺に本陣を置きました。
清洲会議の結果、羽柴秀吉は本拠地・長浜城を柴田勝家へ譲ったため、大きな拠点は黒田官兵衛から明け渡されていた姫路城のみでした。
しかし、柴田勝家と対決するには姫路は遠すぎたので、羽柴秀吉は、山麓にある宝積寺も含めて、山崎城を大改修して本拠地にしたと考えられます。
宝積寺の境内には3重の塔がありますが、これは山崎の戦いの戦没者を供養する為に、豊臣秀吉がたった1日で築いたとされています。
山崎城(やまざきじょう)は、一時的とはいえ仮にも羽柴秀吉(豊臣秀吉)の居城となった城ですが、これは山崎の戦いのあと、清洲会議で長浜城を柴田勝家に譲ったあとの話です。
大坂城が完成するまで、豊臣秀吉は本拠地としていました。
山城・山崎城への登城ですが、宝積寺の境内右奥の下記から山崎城に登れます。
ただし、山崎城の最初の築城は1338年で、林直弘とされ、鳥取尾山城、天王山城、天王山宝寺城、宝寺城、山崎宝寺城、宝積寺城とも呼ばれました。
山崎は交通の要所であるため、古くから重視された拠点であり、山崎城主・薬師寺国長を破った細川晴元は、1538年3月に山崎城を自ら改修し、京都と芥川山城の繋ぎの城としました。
豊臣秀吉の山崎城は、宝積寺も城の一部となります。
幕末の1864年、禁門の変では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地となりました。
さて、宝積寺へのアクセス・行き方ですが、山崎駅の裏山となります。
かなりの急坂を登って行きますが、下記のポイント地点に参拝者用の駐車場もあります。
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