能登半島の真ん中と言っても良いところに、戦国時代には能登・畠山氏の重臣として活躍した長氏の館跡と詰城があります。
館主は、長氏8代の長正連であり、長正連館跡と呼ばれます。
長正連の父・長盛連は、後醍醐天皇に味方していましたが、1336年、足利尊氏が持明院統天皇を擁立して室町幕府を開くと、北朝に転じました。
その長氏の能登における後継者である長正連が住んだのが、長正連館(ちょうまさつらやかた)と言う事になります。
長正連の館とも書きます。
ただし、どこに館があったのか、よくわかっておらず、推定値は現在、水田になっている模様です。
その長正連館の北西の山が荒屋城であり、詰城と考えてよいでしょう。
能登・荒屋城(あらや-じょう)は石川県輪島市門前町東大町にある山城で、標高175m、比高100mとなかなか堅固です。
のち、長正連は穴水城へ本拠を移しました。
しかし、このくらいのことしか、わかっておらず、いや~、記載できることが少ないです。
そのため、ちょっと、長氏(ちょう-うじ)に関して記述しておきます。
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長氏の祖は、長谷部信連(はせべのぶつら)とされます。
長(ちょう)の姓は、信連の出身地である遠江国長邑にちなむそうです。
または、長谷部の略称にしたのではと言う説もあります。
鎌倉時代には源頼朝の御家人として、能登国大屋荘(石川県輪島市)の地頭になりました。
そして、一族は能登の各地に伸びたと言う事になります。
戦国時代には、第19代当主の長続連、その息子で第20代の長綱連、第21代の長連龍らと続き、江戸時代には加賀藩の前田家にて2番目の重臣として続きました。
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