富山県

天堂城 温井景隆と埋蔵金伝説もある能登の山城

天堂城

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天堂城(てんどうじょう)は、石川県輪島市別所谷町にある山城で、鳳至川(ふげし)の脇にそびえたつ、標高は224m、比高160mほどの堅固な城です。
戦国時代には、輪島を領した温井氏の本城として奥能登では最大規模を誇りました。

温井氏(ぬくいし)と言うのは、越中守護となった桃井直信(もものい-ただのぶ)の嫡男・温井景信が、温井景直に迎えられて姓名を改めましたとされます。


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やがて、能登守護を畠山氏が世襲するようになると、1552年頃の畠山七人衆である伊丹総堅、平総知、長続連、三宅総広、遊佐宗円、遊佐続光と共に、温井総貞(温井紹春)の名があります。
このように温井氏は、能登・畠山氏の重臣になっていました。
しかも、温井総貞(ぬくい-ふささだ)は、文芸に深く、畠山義総から重用されて畠山7人衆の中でも筆頭であったとされます。
また、1553年、遊佐続光を大槻一宮の戦いにて破り、権力を絶大なものにしました。

天堂城

そのためか、1555年、主君・畠山義綱と近臣・飯川義宗の謀略にはまり、温井総貞(温井紹春)は暗殺されました。
この暴挙に温井氏と縁も深かった三宅総広が温井続宗の反乱に加勢し、加賀の一向一揆衆を扇動して能登で内乱となりました

温井続宗(ぬくい-つぐむね)は、叔父の温井続基・温井綱貞や、能登・三宅氏の三宅綱久・三宅綱賢・三宅俊景・三宅慶甫らと反乱を起こしましたが敗れて加賀に逃れています。(弘治の内乱)
伝承によると、温井氏の残党が軍資金を埋めたともあります。

天堂城

合計3回反乱を起こしましたが、最後には長続連によって撃退され、温井続宗も討死し、温井残党は能登から一掃されました。

その後、温井景隆(ぬくい-かげたか)の時、1566年に長続連、遊佐続光、八代俊盛などの重臣が、主君・畠山義綱とその父・畠山義続を追放しました。
このため、温井景隆は輪島に帰参することができ、再び重臣として列しています。

天堂城

1577年、上杉謙信七尾城を包囲するると、温井景隆は遊佐続光と共に上杉勢の調略に応じて、長続連らを殺害し、七尾城を開城しました。

その後、織田勢が七尾城を占領すると能登を追われています。
1578、上杉景勝から兵3000の支援を受けて、更には石動山の僧兵も加えて能登の旧領奪還を目指しました。
しかし、穴水城奪還を目指す長連龍、そして佐久間盛政前田利家の反撃にて、菱脇の戦い(羽咋市菱分)で敗れて、温井景隆は三宅長盛と一緒に越後に落ち延びました。

以後、天堂城は長連龍の領地となったようです。

1582年、明智光秀による本能寺の変になると、温井景隆は再び能登を目指したようですが、佐久間盛久に殺害されました。

城跡には殿様屋敷跡、兵庫屋敷跡、そして土塁や空堀などが残っているようです。

温井氏は輪島の領主と申しましても、天堂城は輪島の市街地からだいぷ山に入ったところになり、今ではとても寂しいところです。


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下記の倒れかけていた案内板から北に600mほど行ったところが登城口になります。

天堂城

登城口付近に駐車スペースがありますが、案内板は、前述の通り、南に離れた橋の付近にあります。

次は、長正連館能登・荒屋城に行きました。

七尾城 畠山義統と畠山義総 上杉謙信との七尾城の戦い
穴水城 能登にある長氏の本拠地
能登の観光や城跡訪問にも便利な独自地図


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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