棚木城(たなぎ-じょう)は、石川県鳳珠郡能登町宇出津にある平山城で海城でもあります。
標高は28m、比高は20mほどになりますが、湾の反対側には、崎山城跡もあります。
海に突き出た小さな半島の遠島山全体が城になっていたもようです。
最初の築城としては、応仁年間(1467年~1469年)頃に、棚木左近が築いたとされます。
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長氏の第14代・長光連の弟・某が、最初の棚木左近を称したようで、棚木氏は代々、左近を名乗った模様です。
他の説では、能登守護・畠山義統の次男が棚木左門ともありますが、通常、次男はのちに家督を継ぐ畠山慶致(左衛門佐)でして、関連性はよくわかりません。
このあと、少し説明致しますが、越後に逃れた長景連が、自分の出を畠山氏庶流の棚木氏末裔とした?ため、このような話になったとも考えられます。
ただし、畠山義統の3男は、北にある松波城を築城したとありますので、あながち、あり得る話です。
日本海にも面していますが、能登水軍の基地の一つになっていたのでしょう。
戦国時代の大永年間(1521年~1528年)には、棚木左門氏之の子・棚木新五連之が、主家にあたる穴水城主・長秀連の養子になったともあります。
恐らくは、家中で争いとなり、庶流の長英連が鎮圧したともあります。
その鎮圧された(庶流にやられた)と思われる、長連之の流れは、上杉家を頼って越後に向かったようで、1582年には、正院川尻城を与えられた長景連(ちょう-かげつら)が、魚津城の戦いで上杉勢に見られます。
一方で、宗家をしのぐ力を持った、庶流の長英連の養子である長続連(ちょう-つぐつら)が、長氏を率いると、能登・畠山家の中でも、実権を得たと言う事になります。
そのため、能登・棚木城も長氏の勢力下になったものと推測致します。
1577年に、上杉謙信が七尾城を包囲した際に、棚木城は水攻め?に遇ったと言います。
水攻めと言う表現になっていますが、兵糧攻めと言う事なのかなと感じます。
なんでも、米を流して、水が流れる滝に見せかけたと言う、米流し坂も残っているそうです。
その後、1582年の魚津城の戦いの際、上杉勢の長景連は、上杉家から離れて単独行動をとりが棚木城を攻略しました。
そのため、織田家に従っていた長連龍が奪還して、長景連を討ち取ったとあります。
以後、棚木城は表舞台に名前が出ていません。
城跡は現在、遠島山公園となっており、堀や舟隠しと呼ばれる入江、石垣などがあるようですが、公園として整備された際に、遺構の多くも消滅したようです。
棚木城の先端には離島があり、恐らくは吊り橋などで繋がっていたと思いますが、見る角度によっては、離れていないように見えました。
ただし、宇出津の対岸には、三宅宗隆の能登・崎山城がありますので、そちらが主な城になったのかも知れません。
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交通アクセス・行き方ですが、のと里山空港ICから車で30分ほどの場所にあります。
クルマの場合には、西谷啓治記念館がある公園の入口に広い無料駐車場がありますので、当方のオリジナル北陸地図にてポイントしておきます。
公園にはなっており、見学所要時間は30分くらいのようですが、遺構はあまり残っていないとのことで、遠景撮影だけに留め、能登・松波城へ急ぎました。
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・能登・崎山城 勇猛な三宅宗隆
・上杉謙信の解説~越後の龍と呼ばれた長尾景虎・上杉景虎の人物像に迫る
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・魚津城 上杉勢13人の武将が自刃した魚津城の戦い
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