阿蘇二十四城に数えられる肥後の南郷城・長野城・下田城、そして吉田城などをまとめてご紹介してみます。
肥後・南郷城
熊本県阿蘇郡南阿蘇村にある南郷城(なんごうじょう)は久木野城、桜山城とも言う、標高524m、比高98mの山城です。
阿蘇氏は鎌倉時代に矢部(浜の館)へ本拠を移す前は、南阿蘇の南郷十ヶ村が拠点だったともされます。
ただし、この南郷城は山城ですので、当時この山城が拠点だったとは考えにくいですが、吾妻鏡では、阿蘇惟泰が「南郷大宮司惟泰」と呼ばれており、南郷に居館を構えた領主であったことが伺えます。
その南郷の館の詰め城であっただろう南郷城は急斜面の堅固な城です。
阿蘇氏が矢部に本拠を移してからは、この堅固な城だけが機能していたようで、南北朝時代には、北朝の阿蘇氏の坂梨孫熊丸ら庶子の連合軍が南郷城にて抵抗しました。
スポンサーリンク
のち阿蘇惟澄は坂梨氏を討ち、阿蘇家の支配下に戻しています。
戦国時代の天正12年(1584年)には、僅か3歳の当主・阿蘇惟光の岩尾城が島津家に敗れて逃走したあとも、阿蘇家臣らは南郷城に立てこもり島津勢に抵抗しました。
この時重臣である長野城主・長野惟久は南郷城に入りますが、島津家が南郷に侵攻すると家老・河島志摩守の裏切りもあり長野惟久も討死します。
そして動揺した長野城や下田城は、島津の攻撃で次々に陥落したのでした。(諸説あり)
しかし、このあと島津に奪われていた高森城を急襲した高森惟居が島津勢を撃退し、新納忠元や稲富新助らを肥後・花の山城まで撤退させます。
阿蘇の戦い・阿蘇合戦とも呼ばれますが、この戦い、幼い主君が逃げていても阿蘇の家臣らの結束は揺るいでおらず、おもしろいですね。
上記写真の木柱があった場所は、当方のオリジナルGoogleマップにて場所を分かるようにしてあります。
カーブのところにありますので、クルマを止める場合には安全なところにお願い申し上げます。
肥後・長野城
熊本県阿蘇郡南阿蘇村長野にあるのがその長野城(ながのじょう)で、平城となります。
長野阿蘇神社の付近が城跡で、北側に堀と土塁が残っています。
長野惟久は甲斐氏と並ぶ阿蘇家の重鎮でした。
神社の東側の道を北へ進むと、標柱がありました。
すぐ近くには長野城の城石碑も建っていました。
城と言うよりは館跡と言う印象です。
当方のオリジナル地図にて場所は示してあります。
なお、長野城付近の字北畠には、長野惟久の墓と伝わる五輪塔があると言いますが、場所はわからなかったです。
それ以前の問題で、このあたりの道路は、2016年の熊本地震の被害があり、ところどころ寸断されています。
そのため、思うように進めません。
国道や県道など大きな道は、熊本県の通行止マップに記載されているのですが、生活圏の道路までは不明なので、観光がとても不便です。
スポンサーリンク
この長野城の付近からも、大崩落した阿蘇大橋の斜面が見えました。
もちろん、住民の皆様の生活再建が優先となる話ではございますが、1日も早く普段の生活に戻れることを祈るばかりです。
今後も熊本への寄付だけでなく、行くことでの復興支援も続けて参りたいと存じます。
なお、この付近は西郷隆盛の西南戦争の際にも、政府軍と薩軍の戦場にもなっています。
肥後・下田城
肥後・下田城は、別名を陣内城、下田西ノ城とも言います。
阿蘇氏の重臣として南郷下田荘を与えられて下田氏がいます。
そして、下田城は戦国時代に下田惟政が築いたとされています。
島津氏が南郷城に侵攻した際に下田惟政は、長野城主・長野惟久とともに島津軍と戦って敗北し滅亡しました。
下田城は「阿蘇下田城温泉駅」の西側の付近で、線路によって分断されているようですが、館跡と言う事でしょう。
上記の川の上流部分が下田城のようですが、とても道が狭く、尚且つクルマを止められるところも無いです。
そのため、地元の皆様にご迷惑をお掛けしないよう、上記の写真2枚を撮影するに留めました。
もし、ゆっくり散策してみるのであれば、近くに新しくできた南阿蘇村の新庁舎に車を止めると良さそうです。
肥後・吉田城
南阿蘇は地下水の湧水にり、水が大変豊かなところです。
すなわち、水不足干ばつとなる可能性が少ないため、作物も安定して育てることができるため、肥後の漢字も「肥える」と言う字になっているくらい、大昔から豊かな地だったのでしょう。
スポンサーリンク
吉田城の築城年代は不明ですが、阿蘇氏の重臣・吉田主水頭の居城と伝わります。
もちろん「館跡」と言う事なのですが、付近には「城」「二の丸」「馬場」などの地名も残っているようです。
ただし、吉田城跡は完全に民家となっており、遺構は無いようです。
また、線路の南側には「吉田城御献上汲場」と呼ばれる湧き水があります。
吉田城が築かれた際に、湧水地点を石で囲って水汲み場にしたところで、人の手が加わっている湧水地と言う事です。
なんでも、阿蘇家の重臣・吉田主水頭(もんどのかみ)と言うお殿様しか飲めなかったと言う由緒ある水源と説明される場合があり「吉田城のご献上汲場」として紹介される由縁ですが、吉田城で使用した水の手だったのでしょう。
あと、阿蘇二十四城のひとつ、高森城を別途訪問していますが、別ページにて記載しておきます。
・肥後・高森城と高森惟居~菅野美穂さんもお参りした高森殿杉
・阿蘇惟豊と阿蘇惟将~阿蘇氏を繋いだ阿蘇神社の大宮司
・肥後・岩尾城と阿蘇氏の本拠地だった浜の館
・CM撮影も行われた透き通る自然水の南阿蘇湧水ベスト3
・熊本城の歴史と見どころ~肥後国人一揆と城親基とは(熊本地震の被害も)
・阿蘇神社~神話の2300年前から存在する阿蘇山の守り神
・阿蘇山のドライブスポット景観ベスト5
・一心行の大桜 2018 〜 南阿蘇近郊情報とおすすめコース
・オリジナル九州観光スポット地図
自分は、地震前より長野城主 長野惟久さんの墓参りに行ってました。しかし、この度の地震により途中までしか行けなくなってしまいました。
ドロンとかで、お墓がどうなってるのかわかればと思ってます。