常陸・馬坂城(まざか-じょう)は、茨城県常陸太田市天神林町にある標高40m、比高35mほどの平山城で、間坂城、佐竹城、天神林城とも呼ばれます。
最初の築城は、平安時代に、秀郷流藤原氏になる天神林正恒(天神林刑部丞正恒)が築いたとされます。
その後、後三年の役の戦功により領地を得た新羅義光(新羅三郎源義光)の孫・源昌義が京より下向すると、長承2年(1133年)に馬坂城を奪って居城としました。
この源昌義が佐竹氏の初代・佐竹昌義とされ、近くには佐竹氏の菩提寺となる佐竹寺があります。
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馬坂城の二ノ郭には「源氏塚」と呼ばれる古墳があり、大きな物見台として活用したようです。
佐竹昌義は、勢力を伸ばし、常陸・太田城の小野崎通延を圧迫しました。
そして、その子の佐竹忠義の時には、小野崎通盛を小野崎城に退かせて、佐竹氏は常陸・太田城に本拠を移して戦国時代には常陸に覇を唱えます。
その後、常陸・馬坂城は、佐竹氏の一族である稲木氏の居城となりました。
この稲木氏は久慈郡稲木村が発祥で、佐竹隆義の次男・佐竹義清が稲木次郎(稲木小次郎)と称したのが始まりとされます。
もちろん、諸説あります。
そして、稲木義清・稲木義保・稲木実義・稲木義繁・稲木義信(佐竹義胤の子)・稲木盛義・稲木義武・稲木義信と続きましたが、1417年、山入の乱の際に、稲木義信は宗家を裏切って、山入勢に味方したため滅亡しました。
その後、佐竹氏14代である佐竹義成が、永享年間(1429年~1441年)に天神林城主となっており、天神林義成と称したもようです。
しかし、天神林義成とその子・天神林義益は「山入一揆」加担して、佐竹家の宗家に反抗しました。
山入義藤・山入氏義によって、佐竹義舜が1490年に常陸・太田城を追われると、天神林義益は常陸・山入城を守備したようです。
ただし、佐竹義舜は1504年に、常陸・太田城を奪還すると、山入氏義は本拠の山入城に逃れるも落城し、天神林義益は討死したようです。
その後、馬坂城は佐竹氏に協力した天神林氏の一族が守って可能性があり、戦国時代の1542年、伊達氏の内紛に佐竹義篤が介入した際、奥州・関山の戦いで天神林義兼が討死したと記録があります。
まぁ、繰り返しますが、この佐竹氏以外も含めまして、諸説あると言う事をご承知おき願います。
佐竹寺
常陸・佐竹寺(さたけ-じ)は、茨城県常陸太田市にある真言宗・豊山派の寺になります。
諸説ありますが、一番古い創建の話としては、807年に徳一大師が開山したとあります。
985年には、元蜜上人が聖徳太子が彫り込んだとされる、十一面観音像を祀り、ご本尊となりました。
近くの常陸・馬坂城に入った源昌義は、佐竹氏の祖となり、佐竹寺に寺領を寄進し代々の祈願所としました。
なんでも、源昌義が境内にて二十尋に一節しかない奇竹を発見し、出世の前兆と感じ取って「佐竹」と称したのが由来とされています。
なお、最初、佐竹寺は鶴ヶ池の北にある観音山にあったそうですが、戦国時代の1543年に兵火によって焼失したと言います。
そのため、1546年に、18代・佐竹義昭が常陸・太田城の鬼門除けとして現在の地に再建しました。
関ケ原の戦いのあと、佐竹氏は出羽・久保田城(秋田県)に移封したため、佐竹寺は一時衰退しましたが、水戸藩から寺領17石を安堵されています。
立派な山門(仁王門)は、昭和15年(1940年)に再建されたものとなり、右手前に無料の駐車場がありました。
現在の本堂は戦国時代に再建された建物で、国の重要文化財に指定されています。
本堂は茅葺き屋根の寄棟造になっており、桁行5間、梁間5間の主屋の周囲に、こけら葺きの裳階をめぐらし、正面中央には唐破風をあげている大変趣深い建物です。
常陸・馬坂城は、駐車場は近くにないとわかりつつ、現地まで行きましたが、路駐するにも狭い道路で地元の方にご迷惑がかかると考え、そのままあえなく退散致しました。
しかし、麓は古い集落になっており、下記のように大変立派な門構えの民家もございましたので、充分に佐竹氏の雰囲気を満喫できたと存じております。
交通アクセスとしては、JR水郡線・河合駅から徒歩20分ですが、JR水郡線の常陸太田駅からですと徒歩30分です。
常陸太田駅にある常陸太田市観光案内センターには、電動アシストのレンタサイクル(貸自転車)もありますので、お勧めです。
このあとは額田城に向かいました。
・常陸・太田城(舞鶴城) 戦国大名に発展した佐竹氏の本拠地
・常陸太田の小野崎城 太田氏の移転先
・佐竹義宣 なんとか戦国時代を乗り切った律義者の世渡り
・常陸・山方城 山方盛利や佐竹政義の居城
・佐竹義昭 なかなか合戦では強かった佐竹氏
・額田城 東京ドーム22個分 額田照通の本拠地
・茨城県の城跡巡りにも便利な独自地図
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