但馬・豊岡城(とよおか-じょう)は、兵庫県豊岡市にある階郭式平山城で、標高は48m、比高40mです。
山容から別名は亀城・亀山・城山・神武山とも言いますが、山名持豊(山名宗全)が、本拠・此隅山城の出城として、神武山に木崎城(城崎城)を築いたのが始まりともされます。
木崎城(城崎城)には重臣で、播磨守護代に任命された垣屋熙続(垣屋越前守熙続)を派遣しました。
やがて垣屋氏が事実上の但馬実力者となり、山名氏は事実上、出石の小領主にすぎなくなります。
垣屋続成(かきや-つぐなり)の代となると、1512年に垣屋氏は居城をを鶴ヶ峰城に移しました。
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しかし、山名祐豊が現れると山名氏の勢力が復活し、但馬・鶴城主の田結庄是義や垣屋続成は、山名祐豊に従うようになります。
ただし、織田信長が台頭してくると、引き続き毛利家に対抗するか、織田家に従うかで、山名家も割れます。
そんな中、垣屋続成は勝手に毛利家の吉川元春に寝返ったため、1570年に田結庄是義の奇襲を受けて、岩井村養寿院にて垣屋続成は自刃しました。
まぁ、こんなことを記載しているくらいですので、山名氏時代の木崎城(城崎城)の動向に関しては、よくわかっていません。
1580年に、羽柴秀吉が有子山城の山名祐豊を攻略すると、宮部継潤が豊岡城主となりました。
この時、城崎の地名を豊岡に改められた模様で、豊岡城も改修されました。
また、各地から商人や寺院を引っ越しさせて城下町も整備開始され、現在に至る豊岡が形成されるようになります。
宮部継潤が、1582年に因幡・鳥取城へと移ると、豊臣家の家臣である木下秀定(木下助兵衛尉)、22000石で明石則実(明石与四郎)、3万石で福原長堯(福原右馬之助)が豊岡城主となりました。
そして、1598年、福原長堯は豊後・府内城(荷揚城)に12万石で移り、代わりに豊後・杵築城から杉原長房が豊岡城に2万石で移封となりました。
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杉原長房は、1600年、関ケ原の戦いにて石田三成に味方しました。
しかし、正室が浅野長政の娘だったため、浅野長政が仲介して旧領安堵となりました。
また、1611年には、朝の長政の遺領のうち、常陸国にて5000石が加増されています。
豊岡藩3代藩主の杉原重玄が無子改易となると、1668年からは田辺城から京極高盛が3万5000石にて入りますが、麓に豊岡陣屋を新設しています。
駐車場は、陣屋跡にある図書館の無料駐車場を拝借できるとの事前情報を得ていました。
しかし、訪問させて頂きました平日は、図書館が休館日だったようで、駐車場に入れませんでした。
そのため、豊岡城への登城は断念しています。
豊岡陣屋の門が2箇所に移築されています。
下記は旧豊岡藩庁門です。
下記は、旧豊岡県庁正門と言う事になります。
京極家の筆頭家老に石束毎公(1200石)がいますが、赤穂浪士で有名な大石内蔵助の妻・理玖(りく)が、豊岡で生まれています。
討ち入り前に、4人の子らと豊岡の実家に返されたのも、よく知られるところです。
現在、豊岡城跡の一帯は神武山公園として整備されており、本丸・曲輪跡が残ります。
ただし、市民の公園と言う用途が強く、大きく改変されてしまっているようです。
本丸の北西隅には五角形の小さな天守台があったそうです。
天守台跡に城の案内板があると言います。
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交通アクセスですが、JR山陰本線の豊岡駅から徒歩15分と近いです。
なお、道路は狭く、一方通行もありますので、クルマでの移動はご注意願います。
豊岡城の観光所要時間は30分といったところです。
北近畿は3回目で、昔は城崎温泉にも2回宿泊したことがありますが、今回は、天橋立に泊りました。
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