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丹波・山垣城とは
丹波・山垣城(やまがい-じょう)は、兵庫県丹波市青垣町山垣にある山城で、別名は万歳城、万歳山城で、標高は235m、比高80mです。
鎌倉時代の1209年に、源頼朝に仕えていた足立遠元の孫・足立遠政が佐治荘を拝領し、武蔵国足立郡から移り住みました。
約70名の家来を連れて佐治庄小倉の太夫殿屋敷へ移住したあと、万歳山に山垣城を築いて本拠にしたと言う事です。
本丸、二の丸と曲輪跡が連なるほか、馬場、堀切、土塁の跡もみられ、山麓には堀の内、垣の内の地名があります。
その堀之内あたりが、平時の館跡であったと推測できます。
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この足立氏は、名門・藤原北家の庶流である藤原遠兼が武蔵国足立郡に土着し、その子である足立遠元が足立氏を名乗ったのが始まりです。
埼玉県桶川市には遠元公館跡がありますが、東京都の足立区も、武蔵・足立郡の名残です。
なお、山垣城の登城路から本丸に出る中腹には、丹波足立氏初代となる足立遠政の墓(五輪塔)もあるそうです。
その後、小和田城を築くと、2男の足立遠信が入り、遠阪城には足立光家、岩本城には足立忠基、稲土城には足立政家、塩久には足立基家が赴任するなど支城を築きました。
最盛期には5000石も領したとあります。
足立氏の直系は、1285年から没落しましたが、佐治郷の丹波・足立氏は、戦国時代まで繋がります。
足立遠政の孫・足立光基の3男である遠谿禅師(えんけい)は幼少の頃より出家し、徳治元年(1306年)に21歳で中国(元)に渡り、中峰普応国師に師事したあと日本に戻ると、高源寺を創建しました。
後柏原天皇の代に、勅願所の礼遇を許され、高源寺の住職は末代紫衣の宣旨を受けており、全国に末寺を持つ大本山になっています。
1333年に、後醍醐天皇が船上山で兵を募集すると、足立政家は参加し、京都法勝寺で敵3人を討ち取っています。
足利尊氏が後醍醐天皇に背いたあとも、足立氏は南朝方として動きました。
応仁の乱では、細川氏に従って山名氏と戦い、戦国時代を迎えました。
その後、黒井城の荻野直正(赤井直正)に従いますが、1571年には山名祐豊から攻撃を受けて、山垣城は落城した模様です。
しかし、山名家中で内紛となり、山名祐豊が撤退したため、足立氏は復帰を果たしました。
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やがて織田信長が台頭してくると、1579年、第二次の丹波攻めの際に、八上城、黒井城を落とし遠阪峠を越えて入った羽柴秀長の大軍と、別の方向から来た明智光秀の軍勢の挟撃に合います。
勇猛で知られる足立光永の遠阪城などの支城だけでなく、山垣城も奮戦むなしく落城し、足立基助(足立弥三郎基助)は運命を共にしたようです。
なお、足立基助の嫡男・足立基依は、家臣の手助けにて逃げ延び、帰農したと伝わります。
丹波・足立氏の菩提寺は、山垣城の向かいにある報恩寺で、足立遠元・足立遠光・足立遠政三代の位牌があるそうです。
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交通アクセス
なお、丹波・山垣城への登城ですが、登城口から本丸までは15分ほどらしいです。
ただし、駐車場がありませんので、登城は断念しました。
しかし、丹波と但馬の国境はイマイチよくわかりませんので、混同していましたらお詫び申し上げます。
・黒井城 赤井直正(萩野直正)の戦国と春日局の誕生地
・丹波・八上城 波多野稙通(波多野元清)
・赤井直正 明智光秀に死を覚悟させた丹波の赤鬼
・柏原藩陣屋 修復された巨大な長屋門と田ステ女?
・竹田城 日本100名城で日本屈指の山城
・足立遠元の解説【鎌倉殿の13人】文武両道の鎌倉武士
・足立遠元館(足立氏館)の解説 桶川市にある鎌倉御家人の屋敷跡
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大阪市在住の足立景一と申します。丹波市青垣町山垣の出身です。今から35年程前の山垣城と足立遠元氏の案内板を惣門
付近に建てました。
現在は廃刊となっていますが雑誌「歴史と旅」に武蔵武士足立氏の系譜として投稿し掲載されました。
大阪市在住の足立景一と申します。丹波市青垣町山垣の出身です。懐かしく拝見しました。
35年程前に山垣城と足立遠元の案内板を惣門付近に建てました。
また雑誌「歴史と旅」に武蔵武士足立氏の系譜を投稿して掲載されました。現在は廃刊となっていますが。
東京在住の足立英一と申します。
家族史の一環として先祖を調査しています。
先祖は坂東武士から丹波国に移り住んだと邪推しています。
家紋は「日の丸五本骨扇子紋」です。
機会がありましたら山垣城を訪ねたいと思っています。
以上
コメントありがとうございます。
クルマでないと厳しいところですがご先祖様の良い供養にもなると存じます。
ぜひ、お気をつけてご訪問なさって頂けますと幸いです。(^-^)