宮路山城(みやじやま-じょう)は、岡山市足守にある山城です。
最初の築城は不明ですが、1582年、備中高松城の戦いの際には、毛利勢の乃美元信(乃見少輔七郎元信)が城主として守備していました。
羽柴勢に対する防衛拠点として、北から、宮路山城、冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城の七城で、その主城が「備中高松城」です。
乃美元信(のみ-もとのぶ)と言う武将に関しては史料がほとんどありませんが、毛利水軍の将で賀儀城主である、乃美宗勝の弟と推定されます。
本丸は乃美元信、出丸は船木藤左衛門尉、乃美樹興など400とも500とも言う兵力でした。
羽柴勢の峰須賀正勝と黒田官兵衛は、なんども投降を呼びかけたましたが、乃美元信らの小早川隆景への忠義は揺らがず、1582年4月15日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は対岸の鍛冶山城に軍を進めます。
乃見元信は、矢倉・狭間から弓・鉄砲にて堅固に城を守りました。
そんな中、4月25日に約2km離れた冠山城が激戦の末、落城します。
その後、宇喜多直家の家臣・信原内蔵允が船木藤左衛門の内応に成功すると、使者として宮路山城に入り和睦交渉が行われました。
こうして、5月2日、宮路山城は降伏しました。
乃美元信らは自領に戻ったともされますが、動向は不明です。
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1600年、関ヶ原の戦いにて、豊臣一門でありながら、中立を保った姫路城主・木下家定が、徳川家康より宮路山城のふもと足守領25000石となって移封します。
こうして、足守陣屋が築かれ、豊臣秀吉の正室・ねねの兄である木下家定が治めました。
宇喜多秀家のあと、岡山城主となった小早川秀秋は、木下家定の実子です。
足守藩は陣屋町として栄え、木下家長屋門、足守藩侍屋敷などが保存されているようです。
足守藩では、幕末に活躍した医師・緒方洪庵を排出しています。
なお、宮地山城は登山不能(登山道が廃されている)ですので、登城はできない模様です。
備中高松城の戦い 備中高松城の水攻めの史跡なども別途ご紹介させて頂いております。
・備中高松城の戦い 備中高松城の水攻めの史跡など
・備中松山城~雲海に浮かぶ天守の幻想的な姿を見たい
・日幡城 羽柴勢に奪われるも奪還した毛利家の意地
・冠山城 備中高松城攻めの前哨戦で全滅した城
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