岡山県

備前・虎倉城 伊賀久隆 伊賀家久 長船越中(長船詮光)など歴代城主も


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備前・虎倉城(こくら-じょう)は、岡山県岡山市北区御津虎倉にある標高327m、比高227mの連郭式山城です。

築城は諸説あり、伊賀兵庫頭が1400年前後に築城したとも、虎倉物語(虎倉村又兵衛)によると伊賀伊賀守が1480年頃に赤坂郡鍋谷の城から移ったともあります。
また、戦国時代の大永年間(1521年~1528年)に、金川城(玉松城)の出城として服部伊勢守が築いたともされています。

その後、金川城主・松田元堅(松田元輝)の家臣である伊賀氏の居城となります。
伊賀左衛門久陸、伊賀與二郎(伊賀與三郎)と代々居城し、伊賀久隆が登場します。


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伊賀久隆

松田家の重臣となっていた伊賀久隆(いが-ひさたか)ですが、宇喜多家が勢力を伸ばしてくると、宇喜多直家の妹(宇喜多興家の娘)を妻に迎え、主君・松田元堅(松田元輝)の子・松田元賢は宇喜多直家の娘を正室に迎えて和議を図りました。
ところが、明禅寺の戦いに援軍を出さなかったため、宇喜多直家は自分の娘を嫁がせた、松田家を滅ぼすため、伊賀久隆を内応させて、金川城の乗っ取りを企みます。

1568年、松田元脩などの松田氏の重臣ら多数が金川城に招かれた日を狙い、まずは伊賀久隆かせ金川城を包囲し、宇喜多直家も軍勢を派遣しました。
そして、城内に配置していた伊賀久隆の手勢が、松田元堅(松田元輝)を討ち取り、2日間で金川城は落城します。
その翌日には、城から逃亡していた松田元賢も討ち取り、宇喜多直家の娘も自害して果てました。
こうして、235年続いた松田家は滅亡しています。

金川城の戦いで貢献した伊賀久隆の所領は15万石にもなり、宇喜多家の家中でも最大級の実力者となっています。
1578年には、上月城の戦いにも参陣してい戦功を挙げました。
しかし、1579年に宇喜多直家が織田家に臣従すると、虎倉城は毛利家の脅威にされされることになります。

毛利勢は備中と美作との連絡路を得るため、児玉元兼、粟屋与十郎、神田宗四郎らが虎倉城攻めを行いました。
1580年4月14日、虎倉城の戦いとなりましたが、伊賀勢は下加茂の山中(虎倉城の周囲の山)でゲリラ戦を展開し、精鋭の鉄砲隊によって毛利家の粟屋元信を始めとする有力武将らを討ち取ります。
更に、逃走する毛利勢を追撃すると250余人を討ち取りながらも、伊賀勢の死者はほとんどいないと言う大勝利を収めました(加茂崩れ)。
伊賀氏は銀山を所有していたようで、その経済力により早くから鉄砲隊を組織していたと言います。
毛利輝元は、あとは小早川隆景に託して安芸・吉田郡山城に戻っています。

ところが、翌年の1581年4月、伊賀久隆はなぞの死を遂げました。
桂岌円覚書によると、宇喜多直家の家臣・河原四郎右衛門尉が毒を盛ったとされています。

備前・虎倉城

伊賀家久

あとを継いだ子の伊賀家久(いが-いえひさ)は、1581年8月、小早川隆景の調略を受けて、毛利家に寝返りました。
所領は安堵されています。

もちろん、宇喜多家は虎倉城を攻撃しようとしたため、小早川隆景から虎倉に近い「勝山城」の修造を命じられました。
また、宇喜多春家の守っていた備中・金山城にも攻め込み武功を挙げましたが、陥落させるには至らなかったようです。
その後、1582年、羽柴秀吉との備中高松城の戦いでは、忍山城に入って牽制しました。

しかし、本能寺の変のあと、天正11年(1583年)に毛利家と羽柴秀吉との間で領地の境界が決定すると、伊賀家の所領は宇喜多家に組み込まれることになります。

当然、納得行かない伊賀家久は、虎倉城に籠城しましたが、正室の父で備前・保木城主である明石行雄の説得をうけて、天正12年(1584年)秋頃までに虎倉城から退去しました。
1584年9月には、小早川隆景から備中国大井荘5ヶ村、吉川、山内に加えて備後国神辺に所領を与えられましたが、15万石を誇っていた家臣の多くは奥津高にて帰農したと言います。
しかし、悪いことは重なるもので、高梁川を境にして毛利家と宇喜多家の領地が分断することになり、伊賀家久は備中の所領を失いました(中国国分)。

1584年2月には、毛利輝元より周防国・長門国に新たに300石が与えられましたが、天正15年(1587年)に小早川隆景が筑前・名島城に移封となると、これに従い、伊賀家久は間もなく病没しています。

毛利輝元は、伊賀家久の娘を井原元歳に娶らせて、伊賀家を継承させたとあります。

長船越中(長船詮光)

さて、伊賀家久が虎倉城から退去した際には、黒田官兵衛(小寺官兵衛)・蜂須賀彦右衛門が接収を担当し、そのあと、宇喜多家の譜代である長船越中(長船越中守詮光)が約1万石にて城に入りました。
長船越中は最終的に3万7000石となりますが、長船越中は幼い宇喜多秀家を支えるため岡山城にいて、虎倉城には在番として妹婿・石原新太郎を配置していたと言います。
石原新太郎は、広面村の西谷に館を構えていたとされます。

1588年になると、長船一族の不仲によって、長船越中(長船詮光)は死去し虎倉城も焼失し、廃城となったようです。
石原新太郎が饗応していた長船越中を、鉄砲で狙撃したともされます。


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火災にて逃げ遅れた者は虎倉城の宇甘川に面した絶壁から落ちて死んだ女・子供も多かったと伝わり「姫ヶ淵」と言う地名も残っているようです。
今でも夜になると矢風の音がすると言われています。

虎倉城跡(虎倉城)の遺構としては、山頂の本丸、二の丸、三の丸といった主要な郭をはじめ、石垣、堀切などが残っているようです。

今回、予定外の訪問で登りませんでしたが、虎倉城の登城口は、宇甘川を渡った左手に小さいな神社(境内に虎倉城の説明板あり)から林道終点まで進み、小さな橋を渡ると右手側に登山道があるようです。
そこから本丸まで歩いて30分ほどの登りとなる模様です。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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