多功城
多功城(たこうじょう)は栃木県河内郡上三川町多功にある平城で標高は65m。
最初の築城は、鎌倉時代後期の1248年に、宇都宮頼綱の7男?・多功宗朝(たこう むねとも)が築いたとされる。
兄・横田頼業が一時、多功城を本拠としていたが、1249年秋、上三川城を築いて移転。
そのため、多功宗朝に多功城が与えられたものと推測される。
1282年には、児山城が築かれて多功朝定が分家した。
横田氏・氏家氏・塩谷氏と共に宗家・宇都宮氏を長年支えた。
1380年1月、宇都宮基綱と小山義政が裳原の戦いとなった際には、多功宗冬と多功満朝が奮戦し、ともに重傷を負うも多劫城に戻っている。
戦国時代の多功長朝(たこう ながとも) は「宇都宮家中一の侍大将」と称される活躍をしており、喜連川五月女坂の戦いでみ宇都宮勢の先陣として奮戦した。
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1557年、宇都宮家臣の芳賀高定が壬生綱雄から宇都宮城を奪還。
1558年、上杉謙信が会津の蘆名盛氏らと下野に侵攻し、小山高朝の下野・祇園城、壬生綱雄の壬生城を攻略。
多功城や今泉氏の上三川城も上杉勢の攻撃を受け、多功城下の多功ヶ原で激突したが撃退している。
この「多功ヶ原の戦い」(多功の戦い)に参加した2000の兵は、多功長朝と子の多功房朝。
その他、多功家の家臣である児山城主の児山兼朝、簗城主である簗朝光・簗吉朝の親子、石崎通季、野澤保辰、高木道重、上野祐朝、伊澤遠江守、木田淡路守、伊澤遠江守、橋本若狭守、青柳丹波守、坂治部、小菅隼人らが守備。
芳賀氏・上三川氏など宇都宮勢からの援軍で討死した武将に祖母井色の祖母井吉胤、下野・矢板城の矢板長則などがいる。
石崎通季、児山兼朝、野澤保辰、高木道重も討死したと言うので激戦だったのだろう。
しかし、上杉勢の先陣である佐野豊綱など多くの武将を討ち取るなど撃退に成功。
敗走した上杉勢を追って上野国の上州白井まで追撃したと言うが、岩槻城主・太田資正の仲介にて和睦した。
1572年閏1月、北条氏政の命を受けた秩父新九郎、大田十郎、松田左馬介などの北条勢2000が下野へ侵攻し、下野・祗園城を陥落させ多功城に迫った。
猛将・多功房朝(多功長朝の子)は、石崎、野澤、高木、簗などと防戦。
北条勢は約2000の兵を2つに分けて多功城を包囲し約2時間戦闘となったが、宇都宮城からの加勢の迫ったため、北条勢は引き上げたと言う。
もう一方の北条軍は、宇都宮から多功城への援軍である赤垣高綱、戸祭房相、野中則興、祖母ヶ井越前守などと合戦となり、こちらでも北条勢は引き返している。
そして、同年1572年12月には、関宿城を攻めた北条勢が再度、多功城に迫ったが、宇都宮勢と常陸の佐竹勢に敗れ北条勢は敗走している。
1584年4月、北条勢が佐野へ攻め込むと、宇都宮氏の先陣として多功綱継(多功房朝の次男)が先陣した。
この時、多功氏の家臣である石崎通長が一番首を挙げたので、宇都宮家と同盟軍となっていた佐竹義久から感状を受けている。
1585年12月、北条勢が宇都宮城下へ攻め込み、多功城にも迫ったが、この時も防衛に成功している。
1589年9月、宇都宮城を攻略するために侵攻してきた北条氏邦や北条氏に寝返った芳賀高継と戦いと戦い、多功城にて撃退している
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、宇都宮家中随一の武勇を誇る多功綱継と、芳賀高武が宇都宮国綱の陣代として小田原にて馬一頭、太刀一振を献上。
宇都宮国綱が加わった石田三成の忍城攻めにも、今泉氏・多功氏も参陣したことであろう。
1592年、朝鮮攻めでは、宇都宮勢の副将として多功綱継も出陣している。
1597年、宇都宮国綱が所領を偽っていたとの罪で宇都宮城が没収された。
<注釈> 改易理由には諸説あるが、豊臣秀吉が安堵した18万石以上の石高が認められたとも。
多劫氏は宗家・宇都宮氏とともに没落し、多功城も廃城となった。
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多劫綱賀の弟・多劫綱秀は松平定房に仕え、伊予・今治城下に移住すると、子孫は代々・多劫孫左衛門を称し今治藩士として続いたようだ。
現在城址には本丸跡周辺に土塁や堀を一部だけ確認できる。
城址碑はゴルフ練習場の駐車場の脇にある。
また、城跡近くの見性寺には多劫氏代々の墓があると言う。
交通アクセス
多功城への行き方・交通アクセスだが、JR宇都宮線・石橋駅から徒歩20分。
クルマの場合、大通りから細い道を入るとゴルフ練習場の駐車場がある。
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